昨日は東日本大地震から10年の節目の時でした。
東北地方に住む一人として、
震災のことは他人事のようには思えず、
何度も手を合わせて祈りました。
愛する家族や友人を失った痛み、
慣れ親しんだ町がなくなってしまった悲しみは、
言葉の励ましや慰めだけでは拭い取ることができません。
石巻市で被災した方が私にこう言いました、
「あの出来事から10年経ったなんて信じられないわね。
あの地震がまだ2、3日前のように思ってしまうのよ・・・」と。
数日前に起きたかのように、
あの日の出来事を鮮明に覚えている。
10年経とうと、
震災の痛みは今も変わっていない。
その痛みをずっと背負って生きていくの。
そんな思いが込められた言葉だと私は受け止めました。
出エジプト記12章まで読んできましたが、
ここでエジプトに対する主の災いが終わります。
その最後には、大きな悲劇が描かれていました。
夜中になって主はエジプトの国の、すべてのういご、
すなわち位に座するパロのういごから、
地下のひとやにおる捕虜のういごにいたるまで、
また、すべての家畜のういごを撃たれた。
それでパロとその家来およびエジプトびとはみな夜のうちに起きあがり、
エジプトに大いなる叫びがあった。
死人のない家がなかったからである。(29-30節)
聖書には、良いことも悪いことも、
また嬉しいことや悲しいこと、
また矛盾に感じることも全て真実なまま描かれています。
これを体験したエジプトの民、
またそのような中から生き残ったイスラエルの民の受け取り方は、
きっと違うはずです。
しかし、このような出来事は、
あたかも昨日起きたかのように記憶され、
永遠に語り継がれていくのですね。
後世の者たちは、この事実から何を学び、どのように受け止めるのか。
そこに意味があるからこそ、
聖書という書物に大事な事柄が書き残されているのだと思います。
イスラエルの人々がエジプトに住んでいた間は、
四百三十年であった。
四百三十年の終りとなって、
ちょうどその日に、主の全軍はエジプトの国を出た。
これは彼らをエジプトの国から導き出すために
主が寝ずの番をされた夜であった。(40−42節)
ついにイスラエルの民は、430年の時を経て、
エジプトでの生活から解放されました。
神様がエジプトの国から導き出すために寝ずに見張っていた、
つまり守りつづけていたということがわかります。
いくつもの世代をこえ、長い年月を経てついに手に入れたのは、
「苦しみからの解放」でした。
そして、解放の先に待っているのは、
自由の地での独立!でも、その道のりも困難を極めます・・・。
今も昔も変わらない神様の導きを聖書から感じ取れるように、
深く読み進めていきたいです。
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