詩篇1篇 幸いなるかな ―― 祈りの書の門

詩篇 by 929

詩篇の巻を開くと、最初のことばは「アシュレー(幸いなるかな)」です。神への嘆願でも賛美でもなく、一人の人間の生き方の宣言から、この祈りの書は始まります。詩篇1篇は、150篇すべての手前に置かれた門。ここをくぐって、私たちは祈りの世界へ入っていきます。

いつ詠まれるか

1篇には「安息日には92篇」のような固定の曜日枠はありません。この詩の役割は、テヒリーム(詩篇)を唱えていくときの入口そのものにあります。一巻を通して読む祈りも、故人のために詩篇を捧げる習わしも、多くはここから始まります。

ユダヤの日々の祈りは、一日に三度「アシュレー」(詩145篇)を唱えることを軸にしています。詩篇の書が、その祈りと同じ「アシュレー」の一語で幕を開ける ―― ここに「詩篇を詠むことが祈りとなる」という本企画の核心があります。

背景と作者

1篇には表題がありません。タルムード(ベラホート9b–10a)は、この無題の1篇と続く2篇を本来ひとつの詩とみなし、ダビデが「アシュレー」で始め「アシュレー」で閉じたと語ります。1篇は「幸いなるかな、その人は」で始まり、2篇は「幸いなるかな、主に身を避ける者はみな」で終わる。入口が幸いという語で挟まれているのです。ミドラッシュ・テヒリームはこう対応させます ―― 「モーセはイスラエルに五つのトーラーの書を与え、ダビデは五つの詩篇の書を与えた」。

ここに、青木先生の読みが重なります。青木先生は、1篇を詩篇第一巻の「序(序文)」として読みます。ソロモンが父ダビデの作品を集め、その巻頭にこの一篇を据えたのだろう、というのです(5頁)。根拠は、思想も文体も用語も、詩篇よりむしろ箴言に近いこと。ダビデの激情ではなく、智者ソロモンにふさわしい簡潔で洗練された筆致だ、と先生は評します。

面白いのは、ユダヤ伝統が「アシュレー」で祈りの書の門を見るのに対し、青木先生はそこに箴言(知恵の書)の声を聞いていることです。角度は違えど、どちらも「1篇は知恵の調べで書かれた入口だ」と感じ取っている。先生はさらに、エレミヤがこの詩を引用し敷衍していると指摘します(エレミヤ17章の「水のほとりに植えられた木」)。詩篇1篇は、後の預言者にまで種を蒔いた門だったわけです。

注解を通して読む

第1節「歩まず・立たず・座らない」

ラシーとミドラッシュは、この三つの動詞を堕ちていく段階として読みました。悪しき者の助言に沿って歩き始めた人が、やがて罪人の道に立ち止まり、ついには嘲る者の席に腰を落ち着けてしまう。

驚くのは、青木先生が独立に同じ読みに達していることです。「邪曲人(よこしまびと)の計画」はまだ心の中だけの段階。そこを「歩んで」いるうちに、実行の「道に立ち」、ついに最悪の群れの中に「坐(すわ)り込む」に至る ―― と先生は描きます(6頁)。ユダヤの賢者と日本の聖書学者が、別々の道を通って同じ人間観察に行き着いた。ここは静かな読みどころです。先生は「坐る」の重さを日本語が写しきれないと言い、これは悪に沈み、善も神も聖なるものも嘲笑する状態だ、と補います。青年を戒める詩として無上のもので、箴言4章23節「あなたの心を守れ」と同工異曲だ、とも。

第2節「昼も夜も口ずさむ」

青木先生は「歓喜(よろこび)」の原語に「固着する」の意を見て、聖書を手から放さない姿が写されている、と読みます。そして「思う」より「口吟(くちず)む」がよい、原語は口の中でつぶやく形だから、と(6頁)。まさに、声に出して繰り返すこと自体が喜びであり祈りになる ―― 本企画の主題そのものです。

第3節「水路に植えられた木」

ラシーは「植えられた(シャトゥール)木」を、自然に生えた木ではなく、水のほとりへ意図して移し植えられた木と読みました。青木先生も別の言葉で同じ像に届きます。原語は「しっかり植え付ける」意ゆえ「定植」と訳し、園の主人が丁寧に植える図だとして、ヨハネ15章「わたしの父は農夫である」を重ねます(6頁)。また、パレスチナの川は冬だけ流れることが多く、農園は堀割で水を引くから「水流」ではなく「水路」と訳した、と。木は自分で根を張るのではなく、誰かの手で水のかたわらに据えられる ―― ユダヤの注解も青木先生も、そこに焦点を合わせています。

第4〜6節「もみ殻・審き・二つの道」

青木先生は、4節が悪しき者をたった一語「もみ殻」で吹き飛ばす手際を巧いと評します。5節の「会(つどい)」はイスラエル国民全体を指す語で、いわば国籍簿 ―― 新約のことばにすれば「天国に入れない」ことだ、と(6頁)。そして6節。「悪しき者は自ら『亡びる』―― 悪には自殺的な性質がある」と読み、対する「主は義人の道を知る」の「知る」を、創世記4章「アダムはその妻エバを知った」と同じ語だと指摘します。それは体験すること、一つとなること。神が義人の道を「知る」とは、神がその道と一つになってくださることなのです。

今日の私たちへ ―― 祈りとして

この詩は、最後に二つの「道(デレフ)」を並べて閉じます。「主は正しき者の道を知り、悪しき者の道は滅びうせる」。祈りの書は、幸いという語で門を開き、道という語で第一篇を閉じる。声に出して1篇を詠むとき、それは教訓ではなく祈りになります。「私を、水のほとりに定植してください」と。木は自分で根を張るのではありません。農夫なる父の手で据えられ、そして「知る」が体験であり一致であるなら、この詩を詠むことは、神に知られる道へと自分を差し出すことでもあります。


今日のことば

詩篇 1:1

אַשְׁרֵי הָאִישׁ אֲשֶׁר לֹא הָלַךְ בַּעֲצַת רְשָׁעִים וּבְדֶרֶךְ חַטָּאִים לֹא עָמָד וּבְמוֹשַׁב לֵצִים לֹא יָשָׁב

アシュレー ハイーシュ アシェル ロー ハラフ バアツァット レシャイーム、ウヴデレフ ハタイーム ロー アマード、ウヴモーシャヴ レーツィーム ロー ヤシャーヴ

幸いなるかな、悪しき者の助言に歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の席に座らない人は。

詩篇 1:3

וְהָיָה כְּעֵץ שָׁתוּל עַל־פַּלְגֵי מָיִם אֲשֶׁר פִּרְיוֹ יִתֵּן בְּעִתּוֹ וְעָלֵהוּ לֹא־יִבּוֹל וְכֹל אֲשֶׁר־יַעֲשֶׂה יַצְלִיחַ

ヴェハヤー ケエツ シャトゥール アル・パルゲイ マイム、アシェル ピルヨー イィテン ベイトー、ヴェアレーフー ロー・イィボール、ヴェホル アシェル・ヤアセ ヤツリーアハ

その人は、水路のほとりに植えられた木のよう。時が来れば実を結び、その葉も枯れず、なすことすべて栄える。

詩篇 1:6

כִּי־יוֹדֵעַ יְהוָה דֶּרֶךְ צַדִּיקִים וְדֶרֶךְ רְשָׁעִים תֹּאבֵד

キー・ヨーデーア アドナイ デレフ ツァディーキーム、ヴェデレフ レシャイーム トーヴェード

主は正しき者の道を知り、悪しき者の道は滅びうせる。


本シリーズ「詩篇を詠む」は、詩篇を一篇ずつ、三つの声を重ねて読み解きます。ユダヤ教の伝統的な注解(ラシー『詩篇注解』、ミドラッシュ・テヒリーム=ショヘル・トヴ、タルムード各所)、日本の聖書学者・青木澄十郎『詩篇の研究 ―― 詩篇の直訳と略解』(基督教文書伝道会、1959年)、そして「いつ、どのように詠まれてきたか」という祈り・典礼の視点です。本文中のページ番号は同書によります。ヘブライ語のカタカナ音写は朗読の目安です。

▶ 詩篇ライブラリー(全150篇の目次)

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