詩篇11篇 大黒柱が引き倒されるとき ―― 逃げよ、という声の中で

詩篇 by 929

「私は主に身を寄せた。それなのに、なぜあなたがたは私の魂に言うのか ―― 鳥のように、おまえの山へ逃げよ、と」。詩篇11篇は、国を支えていた柱が折れたように見えた日に、それでも逃げずに立った人の詩です。

いつ詠まれるか

固定した典礼の枠はありません。ただ、ユダヤ教で広く行われている「一か月三十日で詩篇を読み通す」区分では、11篇は第2日(10〜17篇)に入ります。前日に読んだ10篇が「主よ、なぜ遠くに立たれるのですか」と問う詩でしたから、二日目の朝は、その問いを抱えたまま「それでも私は主に身を寄せた」と言い直すところから始まることになります。

この詩が本当に詠まれるのは、逃げるか留まるかを迫られている人の朝です。周りの声はみな「逃げろ」と言う。その声の中で、最初の一行が置かれます。

背景と作者

表題は「伶長に。ダビデの歌」。青木先生は、この詩の背景を「サウル王の迫害か、アブサロムの叛逆の時」と見ます。国家の「大黒柱が引き倒された」ように見えた時である、と(39頁)。

ラシーも、まったく同じ時代を指しています。第2節の「邪曲者ら」とはドエグと、その世代の密告者たち ―― ダビデとサウルのあいだに憎しみを投げ込んだ者たちのことだ、と。そして「暗黒の中より射んとす」の的である「心直き者」とは、ダビデとノブの祭司たちのことだ、と読みます。日本語の生活語で書く青木先生と、十一世紀北フランスのラシー。別々の道を通って、二人は同じ「サウルの迫害」という時刻に、この詩を置きました。

なおこの篇は、ヘブライ語聖書も表題を第1節の中に含めます。以下は口語訳と同じ番号です。

注解を通して読む

第1節「鳥のように、おまえの山へ逃げよ」

青木先生の直訳は「我はヤーウエに信頼す/汝ら何ぞ我が霊魂に言ふや/『鳥の如く汝の山に逃れよ!』」(39頁)。信頼の宣言が先に来て、そのあとに周囲の声が引用されます。順序が逆でないことが大事です。

ラシーは、この「逃げよ」を、サムエル記上26章19節でダビデがサウルに言った言葉と重ねます ―― 「彼らは今日、私を主の嗣業に連なることから追い出した」。国の外へ追い出された者は、巣から離れた鳥にたとえられる、と(箴言27章8節)。さらにラシーは、この「逃げよ」がヘブライ語本文では複数形で書かれていることに注目し、諸国民がイスラエル全体に向かって言う言葉としても読めると付け加えます。一人の逃亡者の詩が、民族全体の詩に開かれる瞬間です。

第3節「大黒柱が引き倒されたとき」

「『大黒柱の引き倒されたるとき、義人は何を為し得んや』」。青木先生はここで急に現代の言葉になります ―― たとい国は敗れ、内閣は不甲斐なく、議会は動物園と化し、政治は私利私慾の機関となっても、「我はヤーウエに信頼する」(39頁)。1959年の日本で書かれた一文です。

ラシーは、この「土台(シャトート)」を、あなたがたによって殺された主の義しい祭司たち ―― 世界の土台である人々 ―― と読みます。そして「義人は何を為し得んや」を、罪を犯さなかったダビデがこの一件で何をしたというのか、という問いとして受けます。

青木先生の「大黒柱」とラシーの「世界の土台」。訳語も文化もまるで違うのに、どちらも「支えていたものが折れた」という同じ一点を指しています。

第4〜5節「主の目は見る」

「ヤーウエは彼の聖殿に在り/ヤーウエ、彼の王座は天に在り」。青木先生は第4節を「実にいい」と書き、「彼の眼は見る」の一句に、神が凡てを洞察しておられることを読みます(39〜40頁)。ラシーもこの節に天と地の距離を読みます ―― 御座は天にあって高いけれども、その目は地上のあなたがたを見ている、と。

第5節「ヤーウエ、彼は義人を洞察す」。ここにラシーは、亜麻を打つ職人のたとえを置きます。亜麻の質が良いと分かっているとき、職人はそれを強く打つ。質が悪ければ、切れてしまうから少ししか打たない。神が義人を試し、悪しき者を試さないのはそのためだ、と。青木先生が「洞察」と訳した動詞は、もともと金属を火にかけて本物かどうかを確かめる語です。試されていることは、見捨てられている証拠ではない ―― 二人が、別々の比喩で同じことを言っています。

第6〜7節「彼らの杯の分」

第6節、青木先生の訳は「邪曲者の上に蹄(わな)を降らせ」。原語パヒームを罠と読んだ形です。ラシーは同じ語を「炭火」と読みました。同じ子音から、一方は罠、一方は炭火 ―― どちらを取っても、続く「火と硫黄と燃ゆる風」へまっすぐ流れ込みます。

青木先生は篇の結びをこうまとめます。邪悪な世の人々のものは火と硫黄と燃ゆる風であって、全世界が義人のものとなる時が来る。ヤーウエは自ら正義であり、また正義の愛好者だから、と(40頁)。ラシーは末尾に、賢者たちの別の読み ―― 「弓を張る邪曲者」をシェブナとその一党、「心直き者」をヒゼキヤとその一党とする読み ―― を紹介したうえで、節の順序はその解釈に合わないと自ら書き添えています。紹介した読みに自分で留保をつける、その慎重さが読んでいて気持ちのよいところです。

今日の私たちへ ―― 祈りとして

「逃げよ」と言う声は、たいてい親切な人から来ます。心配してくれる人ほど、山の向こうを指さす。この詩が拒んでいるのは逃げること自体ではなく、逃げることを先に決めてしまうことです。最初の一行は「私は主に身を寄せた」。そこに立ってから、はじめて周りの声を聞いています。

支えていた柱が折れた日に、私たちにできることは多くありません。けれどこの詩は、そこで「義人は何を為し得んや」と問うたまま終わりません。天の御座と地上の目 ―― 遠くて高い方が、こちらを見ておられる。試されていることは、忘れられていることではない。そう言い切ったところで、この短い詩は閉じます。


今日のことば

詩篇 11:1

בַּיהֹוָה חָסִיתִי אֵיךְ תֹּאמְרוּ לְנַפְשִׁי נוּדִי הַרְכֶם צִפּוֹר

バアドナイ ハスィーティ、エーフ トーメルー レナフシー、ヌーディー ハルヘム ツィッポール

私は主に身を寄せた。それなのに、なぜあなたがたは私の魂に言うのか ―― 鳥のように、おまえの山へ逃げよ、と。

詩篇 11:4

יְהֹוָה בְּהֵיכַל קָדְשׁוֹ יְהֹוָה בַּשָּׁמַיִם כִּסְאוֹ עֵינָיו יֶחֱזוּ עַפְעַפָּיו יִבְחֲנוּ בְּנֵי אָדָם

アドナイ ベヘーハル コドショー、アドナイ バシャマイム キスオー、エーナーヴ イェヘズー、アフアッパーヴ イヴハヌー ベネー アダム

主は、その聖なる宮におられる。主の王座は天にある。その目は見、そのまなざしは人の子らを見きわめる。

詩篇 11:7

כִּי־צַדִּיק יְהֹוָה צְדָקוֹת אָהֵב יָשָׁר יֶחֱזוּ פָנֵימוֹ

キー ツァディーク アドナイ ツェダコート アヘーヴ、ヤシャール イェヘズー ファネーモ

主は正しく、正しい行いを愛される。直き者は、御顔を仰ぎ見るであろう。


本シリーズ「詩篇を詠む」は、詩篇を一篇ずつ、三つの声を重ねて読み解きます。ユダヤ教の伝統的な注解(ラシー『詩篇注解』、ミドラッシュ・テヒリーム=ショヘル・トヴ、タルムード各所)、日本の聖書学者・青木澄十郎『詩篇の研究 ―― 詩篇の直訳と略解』(基督教文書伝道会、1959年)、そして「いつ、どのように詠まれてきたか」という祈り・典礼の視点です。本文中のページ番号は同書によります。ヘブライ語のカタカナ音写は朗読の目安です。

▶ 詩篇ライブラリー(全150篇の目次)

コメント