「滑らかな唇と、二つの心」。詩篇12篇は、言葉が人を支えるためではなく人を倒すために使われる社会を告発し、その真ん中に「主の言葉は純粋だ」と置きます。七たび精錬された銀のように、と。三千年前の嘆きが、そのまま今日の嘆きになる詩です。
いつ詠まれるか
固定した典礼の枠はありません。月三十日の詩篇通読では、11篇に続いて第2日(10〜17篇)に読まれます。
この詩がふさわしいのは、「言われたこと」に傷つけられた日です。約束が守られなかった日、面と向かっては笑い、背中を向けると別のことを言う人に会った日 ―― そういう日の終わりに、第6節(ヘブライ7節)の「主の言葉は純粋だ」という一行が効いてきます。
背景と作者
表題は「伶長に、シェミニトに合わせて。ダビデの歌」。青木先生は「頭書の『八音』については既に述べた」と、6篇での説明を参照し、「ダビデの歌」であることを疑う理由はない、と書きます(40頁)。ラシーはこの「シェミニト」を「八本の弦の琴」と註します。八という数の理解が、両者で重なります。
そのうえで青木先生は続けます ―― これほど高い詩を作るダビデの時代でも、一般の世相はひどく下劣であった、と(40頁)。高尚な思想、崇高な観念、尊い情操にはまったく無感覚で、金力と権力と下劣な情慾のほかに何もない。「滑かなる口唇と二つの心」、これが彼らの武器なのだ、と。
ラシーもまた、この詩を「密告者たちの世代」の詩として読みます。第2節(口語1節)について、みなが私を裏切り、私の隠れている場所を探り出してはサウルに告げ口をする、と註します。青木先生は昭和の日本社会を、ラシーは中世フランスからサウル時代のイスラエルを見ていますが、二人が取り出した結論は同じです ―― この詩の敵は、剣ではなく舌である。
なおヘブライ語聖書は表題を第1節と数えます。以下、本文では口語訳と同じ番号を用います。
注解を通して読む
第1〜2節「誠実な人が、人の子から消えていく」
青木先生の直訳は「助け給へ、ヤーウエよ、寵者(ハシード)は絶え/誠実の人は人の子の中より消ゆ」(40頁)。ハシードは「慈しみ(ヘセド)に生きる人」で、青木先生の訳語では「仁慈」に連なる語です。それが「絶えた」と言うのですから、嘆きは個人の被害ではなく、社会全体の劣化に向かっています。
第2節「人は空虚をもて其の隣人と語り/滑かなる口唇と二つの心にてものいふ」。ラシーは「心と心をもって」という直訳を「二つの心で」と説き、こう言います ―― 彼らは私に親しげな顔を見せるが、その心には憎しみが隠されている。青木先生は同じ場所を、上役への追従と台所口の贈り物という日本の絵に置き換えました(41頁)。人格は二重にしておかないと損をする、実行しようとするのは愚の骨頂だ ―― と、皮肉のかたちで書いています。
第3〜4節「舌にて勝たん」
「彼らは言ふ『我らは舌にて勝たん/口唇は我らと共に在り、誰か我らに主たらんや』」。ラシーはこの「舌にて勝たん」を、そのまま「舌で強くなる」と註します。武器の名を自分から名乗っている台詞です。誰が我らの主人か、という最後の一句には、言葉さえあれば上に立つ者はいらない、という宣言が響いています。
第5節「今、われ立たん」
「苦しむ者の掠奪の故に、貧しき者の吐息の故に ―― 『われ今立たん』とヤーウエ言ふ」。ここで詩の向きが変わります。青木先生は「神よ、汝は眠り給うか」と問いかけたあとで、ヤーウエは『今立たん』と言い給う、弱者のため、哀れな者のため、貧しき者のために立ち給う、と書きます(41頁)。
ラシーはこの「掠奪される貧しい者」を具体的に数えます ―― 私自身と私の部下たち、そしてノブの祭司たちのことだ、と。抽象的な「貧しい者」ではなく、名前と顔のある人々として読むのがラシーの流儀です。
第6節「七たび精錬された銀」
「ヤーウエの言(ことば)は純粋の言なり/地の熔鉱炉にて七回も熔かされ精錬されたる銀なり」。この詩の頂点です。人の言葉が空虚で二重であるのに対して、神の言葉は精錬された銀のように混じり気がない、と。
青木先生はこう書きます ―― ヤーウエが一旦言った事は必ず成る、精錬された純銀の光を放つ(41頁)。ラシーはこう書きます ―― 主の言葉が純粋なのは、それを実行する力が主にあるからだ。人の言葉が言葉でないのは、人は死んでしまい、実行できないからだ、と。
「純粋」を道徳的な清さではなく、「必ず実現する」という意味で読む。青木先生とラシーは、この一点でまっすぐ重なります。九百年の隔たりと、日本語とヘブライ語という距離を越えて、二人が同じ答えに着いた場所です。
なおラシーはここに、ミドラッシュ(レビ記ラッバー19章2節)も添えています。ダビデの時代の子どもたちは、まだ罪の味を知らないうちにトーラーを四十九通りに解き明かすことができた ―― だから「七たび」なのだ、と。そしてダビデは彼らのために祈った、あなたの言葉が彼らの心の中でどれほど精錬されているかご覧ください、この世代から彼らをお守りください、密告者になる道を学んでしまわないように、と。
第7〜8節「この時代から永遠に」
「汝こそは、ヤーウエよ、彼らを守り給ふ/汝は斯る時代より永遠に彼らを保存し給ふ」。青木先生は、最後には「喘ぐ者どもが安全の中に置かれる」、そして「永遠に保存」される、と読みます。そしてこう続けます ―― 此詩は無論御再臨の歌ではない、が、この理想の実現は御再臨の時であろう、と(41頁)。断定と留保が同居する、正直な一文です。
今日の私たちへ ―― 祈りとして
言葉が安くなる時代は、いつの時代にもあります。三千年前のエルサレムにも、1959年の日本にも、今日にも。この詩はそれを嘆きますが、嘆きだけでは終わりません。人の言葉が信用できないからこそ、「主の言葉は純粋だ」という一行が要るのです。
第6節を声に出してみると、これが慰めであると同時に、こちらへの問いでもあることが分かります。私の言葉には、実行する力があるだろうか。私は誰かに向かって、二つの心で話していないだろうか。七たび精錬された銀の前に立つとは、そういうことです。
今日のことば
詩篇 12:2(口語12:1)
הוֹשִׁיעָה יְהֹוָה כִּי־גָמַר חָסִיד כִּי־פַסּוּ אֱמוּנִים מִבְּנֵי אָדָם
ホーシーアー アドナイ、キー ガマル ハスィード、キー ファッスー エムニーム ミベネー アダム
主よ、助けてください。慈しみに生きる人が絶え、誠実な人が人の子らの中から消えてしまいました。
詩篇 12:3(口語12:2)
שָׁוְא יְדַבְּרוּ אִישׁ אֶת־רֵעֵהוּ שְׂפַת חֲלָקוֹת בְּלֵב וָלֵב יְדַבֵּרוּ
シャヴ イェダッベルー イーシュ エト レエーフー、セファト ハラコート ベレーヴ ヴァレーヴ イェダッベールー
人は互いに空虚なことを語り、滑らかな唇と、二つの心をもって語る。
詩篇 12:7(口語12:6)
אִמְרוֹת יְהֹוָה אֲמָרוֹת טְהֹרוֹת כֶּסֶף צָרוּף בַּעֲלִיל לָאָרֶץ מְזֻקָּק שִׁבְעָתָיִם
イムロート アドナイ アマロート テホロート、ケセフ ツァルーフ バアリール ラアーレツ、メズッカーク シヴアターイム
主の言葉は、混じり気のない言葉。土の炉で精錬され、七たび清められた銀。
本シリーズ「詩篇を詠む」は、詩篇を一篇ずつ、三つの声を重ねて読み解きます。ユダヤ教の伝統的な注解(ラシー『詩篇注解』、ミドラッシュ・テヒリーム=ショヘル・トヴ、タルムード各所)、日本の聖書学者・青木澄十郎『詩篇の研究 ―― 詩篇の直訳と略解』(基督教文書伝道会、1959年)、そして「いつ、どのように詠まれてきたか」という祈り・典礼の視点です。本文中のページ番号は同書によります。ヘブライ語のカタカナ音写は朗読の目安です。



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