詩篇13篇 いつまで、主よ ―― 四度の問いと、ひとつの「されど」

詩篇 by 929

「いつまで、主よ」。詩篇13篇は、この問いを四度くり返してから、たった一語で向きを変えます ―― 「されど我は」。わずか六節のうちに、絶望から歌までの道のりがまるごと入っています。待ちくたびれた心が、どうやって歌にたどり着くのか。

いつ詠まれるか

固定した典礼の枠はありません。月三十日の詩篇通読では第2日(10〜17篇)に入り、11篇・12篇に続いて読まれます。

短く、覚えやすく、そして問いから始まるので、この詩は古くから病者のため、苦境にある人のために唱えられてきました。「いつまで」という言葉が口をついて出てしまう日 ―― 待つことに疲れた日の詩です。

背景と作者

表題は「伶長に。ダビデの歌」。青木先生は、この詩もサウル王の迫害が長く続いた時の作だろう、7篇の少し後だろう、と見ます。ダビデの一生涯のうちで最も暗く、希望の少ない時であった、と(42頁)。

青年ダビデは国家に大きな功を立てた。ところがサウル王は猜疑の眼を彼に向け、王位をうかがう者として彼を滅ぼそうと全力を尽くした。この間のダビデの苦しみは想像に絶する ―― どんなに信仰の深い彼であっても、神の救いを待ちくたびれたことはあったろう、と青木先生は書きます(42頁)。その気分がこの詩になって現れた、と。

なおヘブライ語聖書は表題を第1節と数えます。以下、本文では口語訳と同じ番号を用います。

注解を通して読む

第1〜2節「いつまで」が四度

「ヤーウエよ、いつまで我を全く忘れ給ふや/いつまで汝の顔を我より掩ひ給ふや/いつまで我が霊魂の中に憂慮を育つべき/いつまで我が仇は我が上に高めらるるならん」(41頁)。

青木先生は、第1節から第2節にかけて「いつまで」「いつまで」と何遍もくり返しているのは、その心をよく示している、と読みます(42頁)。そして訳語について正直に断ります ―― 原語ネツァハには「永遠に」と「全く」の両様の意味がある、私は「全く忘れ給ふや」と改めたが、どちらを採用してもよい、と。

ラシーも同じ四度に目を留めます。ただしラシーが数えたのは心理ではなく歴史でした ―― 「いつまで」が四度あるのは四つの捕囚に対応する、そしてこれはイスラエル全体について言われているのだ、と。

一人の男の待ちくたびれた気分として読む青木先生。民族の四つの流謫の年表として読むラシー。まったく別の道を通りながら、二人とも「四度である」ということ自体を、この詩の設計として受け取っています。くり返しは感情の乱れではなく、構造なのです。

第2節「我が仇」は誰か

青木先生は、「いつまで我が仇は我が上に高めらるるならん」の「仇」をサウル王ではなく、ダビデを讒言する者たちだと見ます。彼らはダビデを国賊として滅ぼすことによって「高められる」からです(42頁)。だから彼は「胸に悲しみを抱きつつ」「霊魂の中に憂慮が育ちつつ」と歌っている、と。

憂慮が「育つ」という言い方が印象に残ります。心配は置いておくと減るものではなく、育ってしまう。

第3節「熟視し給へ、答へたまへ」

「熟視し給へ、答へたまへ、ヤーウエよ、我が神よ/我が眼を明るくし給へ、恐らくは死に睡らん」。青木先生はここで、原文には敬語がなく、たった四語であることに注目します。シーザーがガリア征伐を「来れり、見たり、勝てり」の三語で表したのに比すべき語だ、神に肉迫しての祈りである、と(42頁)。長い祈りが尽きたところに残る、短い四語です。

「恐らくは死に睡らん」。ラシーは簡潔に註します ―― 死は眠りと呼ばれる、エレミヤ書51章39節に「永遠の眠りを眠る」とあるとおりだ、と。眼を明るくしてください、という願いが、そのまま生かしてくださいという願いになります。

第5〜6節「されど我は」

「されど我は ―― 我は汝の恩寵に信頼す/我が心は汝の救の中に躍らん/彼は豊かに我をあしらひたれば/我はヤーウエに歌ひまつらん」。

青木先生は、ダビデの詩の特徴をここで一般化します ―― 彼の詩は非常に暗く絶望的に始まるけれども、末句に至るまでに希望を生じ、まったく光明の中に出ることが多い。3篇でも4篇でも、その他でも同じだ、と。そして第3節・第4節の祈願が口から出ると、ただちに第5節・第6節の信頼と歓喜が生じた、「されど我は ――」、この一語が心機一転の鍵である、と書きます(42頁)。

「信頼す」から「救を喜ばん」に進み、「歌ひまつらん」にまで達している。青木先生はその歩みを、マルコ11章24節の「既に得たりと信ぜよ」に重ね、さらに57篇の、真夜中に夜明けを呼び出す鶏の声に重ねます ―― 「琴よ、竪琴よ、さめよ。われ暁を呼びさまさん」。そして篇の締めくくりに、こう置きました。信仰は暗夜の中から黎明を呼び出す力がある。敗戦の暗夜に、頭上の星を眺めよう、と(42〜43頁)。1959年の日本語で書かれた一行として読むと、重みが違って聞こえます。

今日の私たちへ ―― 祈りとして

この詩の作りは単純です。四度の「いつまで」、三つの願い、そして一語の「されど」。全体でわずか六節。それでも、待ちくたびれた心がどうやって歌にたどり着くのかを、これ以上省けない形で示しています。

大事なのは、「されど」の前に何も解決していないということです。仇は依然として上にいる。神の顔は依然として見えない。それでも詩は向きを変えます。信頼は事態が好転してから起こるのではなく、暗いままの夜の中で起こる ―― 青木先生の言う「黎明を呼び出す」とは、そういう順序のことでしょう。

四度「いつまで」と言ってよいのです。この詩は、その四度を削らずに残したまま、私たちに手渡されました。


今日のことば

詩篇 13:2(口語13:1)

עַד־אָנָה יְהֹוָה תִּשְׁכָּחֵנִי נֶצַח עַד־אָנָה תַּסְתִּיר אֶת־פָּנֶיךָ מִמֶּנִּי

アド アナー アドナイ ティシュカヘーニー ネツァハ、アド アナー タスティール エト パネーハ ミメンニー

いつまでですか、主よ。あなたは私を全く忘れてしまわれるのですか。いつまで、御顔を私から隠されるのですか。

詩篇 13:4(口語13:3)

הַבִּיטָה עֲנֵנִי יְהֹוָה אֱלֹהָי הָאִירָה עֵינַי פֶּן־אִישַׁן הַמָּוֶת

ハビータ アネーニー アドナイ エロハーイ、ハイーラー エーナイ ペン イーシャン ハマーヴェト

見つめてください、答えてください、主よ、私の神よ。私の目を明るくしてください。私が死の眠りにつかないように。

詩篇 13:6(口語13:5〜6)

וַאֲנִי בְּחַסְדְּךָ בָטַחְתִּי יָגֵל לִבִּי בִּישׁוּעָתֶךָ אָשִׁירָה לַיהֹוָה כִּי גָמַל עָלָי

ヴァアニー ベハスデハー バタフティー、ヤゲール リッビー ビーシュアーテーハ、アシーラー ラアドナイ キー ガマル アラーイ

されど私は、あなたの慈しみに信頼しました。私の心はあなたの救いに躍ります。私は主に歌います。主が豊かに報いてくださったから。


本シリーズ「詩篇を詠む」は、詩篇を一篇ずつ、三つの声を重ねて読み解きます。ユダヤ教の伝統的な注解(ラシー『詩篇注解』、ミドラッシュ・テヒリーム=ショヘル・トヴ、タルムード各所)、日本の聖書学者・青木澄十郎『詩篇の研究 ―― 詩篇の直訳と略解』(基督教文書伝道会、1959年)、そして「いつ、どのように詠まれてきたか」という祈り・典礼の視点です。本文中のページ番号は同書によります。ヘブライ語のカタカナ音写は朗読の目安です。

▶ 詩篇ライブラリー(全150篇の目次)

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