「愚か者は心の中で言った、『神はいない』と」。詩篇14篇は、神を計算に入れない社会がどうなるかを描いた詩です。青木先生は敗戦後の日本の田舎からこれを読み、ラシーはバビロンの王の宴席からこれを読みました ―― 二人とも、同じ食卓にたどり着きます。
いつ詠まれるか
固定した典礼の枠はありません。月三十日で詩篇を読み通す区分では、14篇は第2日(10〜17篇)に入ります。そして、この詩とほとんど同じ言葉でできている53篇は、第9日(49〜54篇)に置かれています。ひと月のあいだに、ほぼ同じ言葉が二度戻ってくることになります。
この詩が本当に詠まれるのは、まわりを見わたして「ここでは神が数に入っていない」と気づいてしまった朝でしょう。
背景と作者
表題は「伶長に。ダビデの歌」。青木先生がまず指摘するのは、この歌が詩篇の中に二回現れることです。本篇と53篇。違いは三つだけ ―― 神の名が本篇ではヤーウェ、53篇ではエローヒームであること、第5節がまったく異なること、第6節が53篇には無いこと。なぜそうなったのかは「推測さえも出来ない」と、青木先生は正直に書きます(43頁)。
ラシーは、その問いに答えを持っていました。ダビデはこの書の中で、ほとんど同じ言葉の詩を二つ詠んだ。前の一つはネブカドネツァルについて、後の一つ(53篇)はティトスについてだ、と。第一神殿を壊した者と、第二神殿を壊した者です。同じ言葉が二度必要だったのは、同じことが二度起きたからだ、という読み方になります。
青木先生は「わからない」と書き、ラシーは「二度あったからだ」と書く。答えは違いますが、この重複を単なる写し間違いとして片づけなかった点では二人は同じです。
なおヘブライ語聖書も表題を第1節の中に含めます。以下、節番号は口語訳と同じです。
注解を通して読む
第1節「愚者」とは誰か
「愚者は心の中に言ふ『神は無し』と」(43頁)。
青木先生は、この「愚者」は白痴のことではない、とまず断ります。真知の無い人、真理に暗い人である、と。そして踏み込みます ―― 自分が不善を為すだけでなく、善というものの存在も認めない。だから無神論者よりも低い。有神か無神かということ自体を問題にしない人だ、と。ニーチェは有神論を冷笑して「神は死んだ」と言った、死神論は無神論よりもたちが悪い、とも書いています(43〜44頁)。
ラシーはこの「神は無し」に、イザヤ書14章14節の「我は雲の高きに登らん」を重ねました。バビロンの王の言葉です。「神はいない」は思想ではなく、自分が上に行くための場所あけなのだ ―― そう読んだことになります。
第3節 腐るということ
青木先生は、第1節の「腐れたり」と第3節の「醜敗せり」を訳し分けました。前者は腐爛して臭気の出ることを、後者は食物が変味して酸敗したことを指す、と(44頁)。ラシーは第3節の同じ語(ネエラーフー)に、ごく短い註をつけています ―― 「腐敗へと転じた」。
日本語で「酸敗」と書いた青木先生と、ヘブライ語で「腐りへ転じた」と書いたラシー。別々の言語で、二人とも食べ物の比喩を選びました。この詩が描いているのは悪の激しさではなく、置きっぱなしにした食べ物のように、静かに変質していく状態なのです。
第4節 パンを食うように民を食う
「彼ら我が民を食ふ、パンを食ふ〔如くに〕」。青木先生は、これは文字通り我が国の官僚・政党・資本家およびすべての有力者のことだ、と書きます。神を全く度外視する社会は人々相食む社会となる、と(44頁)。1959年の日本語です。
ラシーは、この「パンを食う」をダニエル書5章1節に結びます ―― ベルシャザル王が大宴会を開いた、その「宴」の語です。神の器を使って飲みながら、その神を思い出しもしなかった、と。さらにラシーは賢者たちの読みを添えます(サンヘドリン104b、ミドラッシュ・テヒリーム14篇) ―― イスラエルから奪わない者は、食事に旨みを感じなかった。彼らにとって民を食うことが、パンを食うことだったのだ、と。
青木先生が見ているのは戦後日本の宴席、ラシーが見ているのはバビロンの宴席です。それでも二人とも、この「食う」という一語を、比喩ではなく実際の食卓の光景として読みました。
第5節 そこで彼らは恐れおののいた
「其処に恐怖は彼らを恐怖せしむ/そは神は義しき人種の中に居るが故に」。
青木先生は、大なる恐怖が彼らを襲うのは必然である、恐慌時代から恐怖時代が来る、と書きます。けれども「神は義しき人種の中に居る」のだから、必ず義人を救う時が来る、と(44頁)。
ラシーはここで、ふたたびダニエル書を開きます。5章6節 ―― 王の顔色は変わり、思いは彼を恐れさせ、腰の関節はゆるみ、膝は震えて打ち合った。宴会の最中の話です。前の節の食卓が、この節でそのまま恐怖の場面に変わります。そして「義しき人種」を、ラシーはエコニヤの世代 ―― 捕囚に連れて行かれた側の、正しい人々 ―― と読みました。神がおられるのは宴会の側ではなく、連れて行かれた側だ、ということです。
第7節 シオンから
「顕くはシオンよりイスラエルの救の出でんことを」。青木先生は、この第7節は後世の人が付け加えたもので、多分捕囚時代の追加だろう、と見ます(44頁)。
ラシーはここを、まだ来ていない日として読みます ―― その日が近づき、シオンからイスラエルの救いが与えられる、そのときヤコブは喜び踊り、イスラエルは楽しむ、と。
一方は文献の層として、一方は終わりの日として。二人とも、この一節だけがこの詩の時間の外に出ていることを、はっきり感じ取っていました。
今日の私たちへ ―― 祈りとして
この詩には、悪人の名前が出てきません。剣も出てきません。出てくるのは食卓です。パンを食べるように人を食べる者たちと、その食卓のただ中で膝が震えだす瞬間と、それを天から見下ろしている目。
「神はいない」と声に出して言う人は、実はそう多くありません。この詩が問題にしているのは、口ではなく心の中で、しかもたいていは無自覚に、神を計算から外している状態です。青木先生の言い方を借りれば、有神か無神かを「問題としない」ことのほうが、無神論よりも深いところにあります。
けれど詩はそこで終わりません。「神は義しき人種の中に居る」。数えられていないほうの側に、神はおられる ―― そう言い切ったうえで、最後の一行がシオンの方を向きます。後から誰かが書き足したのだとしても、書き足さずにはいられなかったのでしょう。
今日のことば
詩篇 14:1
לַמְנַצֵּחַ לְדָוִד אָמַר נָבָל בְּלִבּוֹ אֵין אֱלֹהִים הִשְׁחִיתוּ הִתְעִיבוּ עֲלִילָה אֵין עֹשֵׂה־טוֹב
ラムナツェーアハ レダヴィド、アマル ナヴァル ベリッボー エーン エロヒーム、ヒシュヒートゥー ヒトイーヴー アリラー、エーン オーセー トーヴ
伶長に。ダビデの歌。愚か者は心の中で言った、「神はいない」と。彼らは腐り、忌まわしい行いをした。善を行う者はいない。
詩篇 14:5
שָׁם פָּחֲדוּ פָחַד כִּי־אֱלֹהִים בְּדוֹר צַדִּיק
シャム パハドゥー ファーハド、キー エロヒーム ベドール ツァディーク
そこで彼らは恐れおののいた。神は、正しい者の世代のただ中におられるからである。
詩篇 14:7
מִי־יִתֵּן מִצִּיּוֹן יְשׁוּעַת יִשְׂרָאֵל בְּשׁוּב יְהֹוָה שְׁבוּת עַמּוֹ יָגֵל יַעֲקֹב יִשְׂמַח יִשְׂרָאֵל
ミー イッテン ミツィヨーン イェシュアト イスラエール、ベシューヴ アドナイ シェヴート アンモー、ヤゲール ヤアコーヴ イスマハ イスラエール
どうか、シオンからイスラエルの救いが出ますように。主がその民を連れ帰されるとき、ヤコブは喜び踊り、イスラエルは楽しむ。
本シリーズ「詩篇を詠む」は、詩篇を一篇ずつ、三つの声を重ねて読み解きます。ユダヤ教の伝統的な注解(ラシー『詩篇注解』、ミドラッシュ・テヒリーム=ショヘル・トヴ、タルムード各所)、日本の聖書学者・青木澄十郎『詩篇の研究 ―― 詩篇の直訳と略解』(基督教文書伝道会、1959年)、そして「いつ、どのように詠まれてきたか」という祈り・典礼の視点です。本文中のページ番号は同書によります。ヘブライ語のカタカナ音写は朗読の目安です。



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