詩篇15篇 誰があなたの天幕に泊まれるか ―― 十一のこと

詩篇 by 929

「主よ、誰があなたの天幕に泊まれるでしょう」。詩篇15篇は、その問いに十一の答えを並べます。犠牲も祈りも出てきません。出てくるのは、舌と、友と、金と、誓いだけ。神殿の門で問われるのが、この十一だというのです。

いつ詠まれるか

青木先生は、この詩を24篇と同じ場面に置きます。神の契約の櫃をシオン山に安置した時の礼讃歌ではないか、と(サムエル記下6章12〜19節を参照。45頁)。あるいは苦戦のさなか、契約の櫃を担いで勝利したときの歓迎の歌かもしれない、とも書いています。どちらにせよ、門の前で歌われた歌だという見立てです。

タルムードは、この詩をまったく別の場所に置きました。マコット24a ―― ラビ・シムライは言います。モーセに与えられた戒めは六百十三。ダビデが来て、それを十一の上に立たせた。その十一が、この詩篇15篇だ、と。そこからイザヤが六に、ミカが三に、そしてハバククが一つ ―― 「義人はその信仰によって生きる」 ―― に絞っていく、有名な一節です。

月三十日の詩篇通読では第2日(10〜17篇)に入ります。前の14篇が「善を行う者はいない」と言い切ったすぐ後で、この詩は「では誰なら」と問い返す形になります。

背景と作者

表題は「ダビデの歌」。青木先生は、この詩の特徴をこう押さえます ―― 神の幕屋に住む人の資格を歌ったもので、礼拝の時に道徳的反省を求めるところに特色がある。ヤーウェの神は、こうして古代から倫理的の神であったことが窺われる、と(45頁)。そして、これはダビデ自身の心掛けであったと見てもよかろう、と付け加えます。

ラシーは、第3節の註のなかにひとことだけ、この詩全体についての言葉を挟みます ―― 「この詩は、敬虔の度合いを知らせるためのものである」。

礼拝の場で道徳的反省を求める詩だと言う青木先生と、敬虔さの物差しを示す詩だと言うラシー。ほとんど同じ文です。片や1959年の日本語、片や十一世紀北フランス。二人とも、この詩を「神殿に入る手続き」ではなく「人柄の目盛り」として読みました。

なおヘブライ語聖書も表題を第1節の中に含めます。以下、節番号は口語訳と同じです。

注解を通して読む

第1節「逗る」と「住む」

青木先生の直訳は「誰が汝の天幕に逗るならん/誰が汝の聖山に住むならん」。この訳し分けが要点です ―― 「逗る」は一時的の寄留、次の「住ふ者」は永久の住者を指すのだろう、と(45頁)。

そして続けます。私共は信仰によって救われて神の民となってはいるが、この世にある間は天国がまだ仮寓である。元の古巣に戻らぬ注意を要する、と。「聖山に住む」ことが許されるのは、ヤコブの手紙1章12節の言う「試練を経て善しとせらるる時」だろう、と結びました。今夜泊めていただくことと、そこに住み続けることは、別の話なのです。

第2〜5節 十一の目盛り

青木先生の直訳は、第2節から第5節までを短い行に切って並べます。完全に歩む人/正義を行う人/心の中より誠実を語る人。舌にて歩きまわらず/その友に害を為さず/隣人に非難をかぶせず。その目に放埒者を軽蔑し/ヤーウェを畏るる者を尊ぶ人/己を害しても誓を変えず。高利にて金を貸さず/賄賂にて無辜を苦しめぬ人(44頁)。

数えると、ちょうど十一です。青木先生はタルムードに触れていませんが、その改行は、ラビ・シムライが数え上げたのと同じ十一を、そのまま紙の上に並べる形になっています。

第3節 舌で歩きまわらない

「舌にて歩きまわらず」。青木先生は、ここで自分の訳を弁護します ―― 現訳には「舌をもて誹らず」とあるが、私訳は原語の直訳で面白い言葉だと思う、と。そして続けます。喋ること自体が興味になっていて、実は多くの害を撒布している人がいる。ダビデは軍人で政治家だから大ざっぱな人かと思えば、実に善い心掛けである、と(45頁)。

ラシーも、この動詞を放っておきませんでした。ヘブライ語のラーガルは「足で行く」から来た語です。ラシーはこれに古フランス語の訳語を当て ―― 「告発する」 ―― サムエル記下19章28節の「彼はあなたの僕を讒言した」を引きます。同じ語です。

現代語に均してしまえば、どちらも「悪口を言わない」で済みます。けれど青木先生もラシーも、そこで足を止めて、この語の中に残っている「歩く」という動きを見せようとしました。悪口は座って言うものではなく、持って歩くものだ ―― そう言いたかったのだと思います。

続く「隣人に非難をかぶせず」について、ラシーはさらに細かく読みます。身内が罰せられるべき過ちを犯したなら、彼はそれを正しく裁き、その恥を自分にかぶせなかった ―― 「あなたの親戚の某がこれこれの罪を犯し、あなたはそれを覆い隠した」と言われる口実を残さなかった、と。青木先生も同じ節に「実に細かい事にも注意した」と書いています(45頁)。

第4節 誓いを変えない

「己を害しても誓を変へず」。ラシーの註は簡潔です ―― 自分に不利になる誓いを取り消さないのなら、不利でない誓いを取り消さないのは、なおさらではないか。

「放埒者」について、青木先生は原語を「爛れた人」と訳してもよい、と言います。神から見放された人、済度し難き悪人に用いる語である、と(45頁)。二人とも、この節を「態度の目盛り」として読んでいます。

第5節 よろめいては起き上がる

締めくくりは「此らを実行する人は永遠によろめかざる也」。

ラシーは、この最後の一句にもう一段の註を加えました ―― もし彼がよろめいたとしても、そのよろめきは永久のよろめきではない。よろめいては、起き上がるのだ。

十一を全部そろえた人だけが通される門、という読み方を、ラシーはここで自分から外しています。青木先生が「聖山に住む」を試練の後のこととして先送りしたのと、向きは同じです。二人とも、この十一を合格ラインではなく、歩き続けるための目盛りとして受け取りました。

今日の私たちへ ―― 祈りとして

十一のうち、神との関係を直接に言うものは一つもありません。舌、友、隣人、態度、誓い、金 ―― すべて人との間のことです。神の天幕に泊まれるかどうかが、人との間のことで決まる。それがこの詩の言っていることです。

そして十一のどれも、大事件ではありません。「舌で歩きまわらない」も「己を害しても誓を変えない」も、その日のうちに何度も試されて、何度も落ちるたぐいのものです。青木先生の言葉を借りれば、些細に見えるだけ、それだけ毎日の注意が必要ということになります。

だからこそ、ラシーの最後の一行が効いてきます。よろめいては、起き上がる。この詩は門番ではありません。今夜も泊めていただくために、朝ごとに読み直す表です。


今日のことば

詩篇 15:1

מִזְמוֹר לְדָוִד יְהֹוָה מִי־יָגוּר בְּאׇהֳלֶךָ מִי־יִשְׁכֹּן בְּהַר קׇדְשֶׁךָ

ミズモール レダヴィド。アドナイ ミー ヤグール ベオホレーハ、ミー イシュコーン ベハル コドシェーハ

ダビデの歌。主よ、誰があなたの天幕に泊まれるでしょう。誰があなたの聖なる山に住めるでしょう。

詩篇 15:2

הוֹלֵךְ תָּמִים וּפֹעֵל צֶדֶק וְדֹבֵר אֱמֶת בִּלְבָבוֹ

ホレーフ タミーム ウフォエール ツェーデク、ヴェドヴェール エメット ビルヴァヴォー

全き道を歩む人。正義を行う人。心の中で真実を語る人。

詩篇 15:5

כַּסְפּוֹ לֹא־נָתַן בְּנֶשֶׁךְ וְשֹׁחַד עַל־נָקִי לֹא־לָקָח עֹשֵׂה־אֵלֶּה לֹא יִמּוֹט לְעוֹלָם

カスポー ロー ナタン ベネーシェフ、ヴェショーハド アル ナキー ロー ラカーハ、オーセー エッレ ロー イッモート レオラーム

その金を高利で貸さず、罪なき者に対して賄賂を受け取らない人。これらを行う人は、いつまでもよろめくことがない。


本シリーズ「詩篇を詠む」は、詩篇を一篇ずつ、三つの声を重ねて読み解きます。ユダヤ教の伝統的な注解(ラシー『詩篇注解』、ミドラッシュ・テヒリーム=ショヘル・トヴ、タルムード各所)、日本の聖書学者・青木澄十郎『詩篇の研究 ―― 詩篇の直訳と略解』(基督教文書伝道会、1959年)、そして「いつ、どのように詠まれてきたか」という祈り・典礼の視点です。本文中のページ番号は同書によります。ヘブライ語のカタカナ音写は朗読の目安です。

▶ 詩篇ライブラリー(全150篇の目次)

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