「私はいつも主を私の前に置いた」。この一行は、会堂の壁に掛けられ、ユダヤ法典の一行目に置かれてきました。青木先生はここに「我々の好き手本」を見ます。大病から起き上がった人が、その夜から始めた習慣の詩です。
いつ詠まれるか
この詩の第8節は、詩篇の中でもっとも「掛けられた」一行かもしれません。「シヴィーティ・アドナイ・レネグディー・タミード」 ―― この語で始まるので、会堂の祈りの座の前に掲げる銘板そのものが「シヴィティ」と呼ばれるようになりました。目を上げれば、いつもこの一行が目の高さにあるように、という工夫です。
ユダヤ法典『シュルハン・アルーフ』も、ここから始まります。オラハ・ハイーム1章1節、レマの註の一行目 ―― 「私はいつも主を私の前に置いた」は、トーラーにおける大いなる原則である、と。一日の起き方を定める章の、いちばん最初の言葉がこれでした。
キリスト教の側では、ペテロとパウロがこの詩の第9〜11節を説教に引きました(使徒2章25〜28節、13章35節)。青木先生も、初代教会で愛誦されていたものであろう、第23篇に劣らぬ傑作である、と書いています(46頁)。月三十日の詩篇通読では第2日(10〜17篇)です。
背景と作者
表題は「ミクタム。ダビデの」。青木先生は、この「ミクタム」の解を四つ並べます ―― 碑に刻する文、黄金の歌、簡潔で力ある詩、記しし書。原語はミクタブと同字義だろう、と(46頁)。タルムード(ソター10b)は、この語を二つに割って読みました ―― マフ(へりくだった)とタム(全き)。刻まれた碑と読む青木先生、人柄と読む賢者たち。どちらも、この語に「消えない」という手ざわりを感じ取っています。
制作の時期について、青木先生は二つの推測を並べ、後者を採ります。一つはサウル王の迫害の頃とする説。もう一つは30篇と同じ場面とする説 ―― 30篇には本篇10節と同じ言葉があり、どちらも大病の癒された感謝だから、こちらが妥当だろう、と。シオンの要害を奪って自分の宮殿を建てた、その最も大きな成功のさなかに大患にかかり、それが癒された時の感謝である、と(47頁)。
なおヘブライ語聖書も表題を第1節の中に含めます。以下、節番号は口語訳と同じです。
注解を通して読む
第1節 逃げ込む町
「神よ、我を守り給へ、われ汝の中に逃るれば也」。青木先生は、この「汝の中に逃る」という言い方に、民数記35章9節以下の「避難邑」を連想します。六つの町がモーセによって定められ、誤って人を殺した者はその町に入れば助かる ―― あの町のことだ、と(47頁)。神が要塞ではなく、逃げ込む町として読まれています。
第4節 あだし神と取り替える
「あだし神と交換する者は其の苦労いや増さん」。青木先生は、この「交換」の原語がもともと商売の語であることに注目します。しかも時には、妻を娶るときの結納金をも指す。だから「あだし神を娶る者」と読んでもよい、と(47頁)。
ラシーも、まったく同じ二重の読みをしています。「急ぐ」と訳される語には、モーハル ―― 花嫁料 ―― の意味も掛かっている、と。九百年前の北フランスと1959年の日本で、二人が同じ一語に同じ二つの顔を見ました。
第5〜6節 落ちた測り縄
「ヤーウェは、わが嗣業とわが酒杯の分前なり」。青木先生は「嗣業」「準縄」の語から、ヨシュアの時にカナンの地が十二支族に分割された場面を想起します。自分の享けた分け前はヤーウェ自身なのだから、他のいかなる分配よりも善い籤が当たったのだ、と(47〜48頁)。
ラシーも同じ場面に立っています ―― くじが私に落ちて、あなたの取り分に入ったとき、それは心地よい取り分だった、と。二人の読みは、ほとんど重なります。
第7〜8節 私はいつも主を前に置いた
「夜にも亦た我が腎臓われを教ふ/我つねにヤーウェを我が前に置けり/彼わが右に在すが故に我は動かされじ」。古代ヘブライ語で腎臓は、いまの日本語の「肚」に近い場所です。ラシーは、その教えの中身を「神を畏れ、神を愛することを」と註します。
青木先生の読みはこうです。第7節と第8節は、ヤーウェが恒に偕に在り給うことと、夜にも心の中で教えてくださることを歌っていて、ダビデが活ける神と日夜偕に思考し偕に行動したことを示すものである。これは我々の好き手本である、と(48頁)。
ラシーは、その「置く」を行いのほうへ引きます ―― 私のすべての行いにおいて、私は神への畏れを目の前に置いた。なぜか。神がいつも私の右におられて助けてくださるので、私が倒れないためだ、と。そしてもう一つの読みを添えます。王が生涯にわたって読むために手もとに置いていたトーラーの巻物(申命記17章19節)のことでもある、と。
青木先生は「手本」と言い、ラシーは「すべての行いにおいて」と言い、ユダヤ法典はこれを「トーラーにおける大いなる原則」として一日の初めに置く。三つの声が、まったく別の入口から、この節を「思想」ではなく「毎日の姿勢」として受け取っています。この詩の読みどころは、ここでしょう。
第10〜11節 命の道を知らせてくださる
「そは汝は我が霊魂を陰府に見棄てず」。ラシーはここを、ナタンがダビデに告げた言葉(サムエル記下12章13節)に結びます ―― 主もまた、あなたの罪を取り除かれた、死ぬことはない、と。青木先生も、まず大患の癒された歓喜の表現として読みますが、そこに来世の希望が仄かに感ぜられる、とも書きました。だからイエスの御復活の予言と見てもよく、ペテロはそう解釈している、と(48頁)。
そして最後の第11節。青木先生の訳は「汝ぢ生命の途を我に知らせ給はん」です。「知らせてください」ではなく「知らせてくださる」。願いではなく、これから起こることとして訳されています。ラシーも、この節にたった一行の註をつけました ―― これは未来形であって、祈願の言い方ではない。
原文を直訳した日本語の学者と、十一世紀の文法家。二人はここで、同じ一点を守りました。この詩は「教えてください」と言って終わるのではなく、「教えてくださる」と言って終わります。
今日の私たちへ ―― 祈りとして
この詩は、大病から起き上がった人の詩です。それなのに病気のことはほとんど出てきません。出てくるのは、逃げ込む町、落ちた測り縄、夜の教え、右手、そして目の前に置かれたひとつの名前です。
「私はいつも主を私の前に置いた」。これは信じているという告白ではなく、置いた、という行為の報告です。だからこそ銘板になり、法典の一行目になりました。信じる気持ちは日によって上下しますが、目の高さに掛けるのは掛ければ済みます。
そして詩は、願いではなく約束で閉じられます ―― あなたは命の道を私に知らせてくださる。まだ知らされていない道について、すでに知らされることになっている、と言い切る。これが最後の一行です。
今日のことば
詩篇 16:5
יְהֹוָה מְנָת־חֶלְקִי וְכוֹסִי אַתָּה תּוֹמִיךְ גּוֹרָלִי
アドナイ メナート ヘルキー ヴェホシー、アッター トミーフ ゴラリー
主こそ、私の受ける分、私の杯。あなたが私のくじを支えてくださる。
詩篇 16:8
שִׁוִּיתִי יְהֹוָה לְנֶגְדִּי תָמִיד כִּי מִימִינִי בַּל־אֶמּוֹט
シヴィーティ アドナイ レネグディー タミード、キー ミーミニー バル エンモート
私はいつも主を私の前に置いた。主が私の右におられるので、私は揺るがされない。
詩篇 16:11
תּוֹדִיעֵנִי אֹרַח חַיִּים שֹׂבַע שְׂמָחוֹת אֶת־פָּנֶיךָ נְעִמוֹת בִּימִינְךָ נֶצַח
トディエーニ オーラハ ハイイーム、ソーヴァ セマホート エト パネーハ、ネイモート ビーミネハー ネーツァハ
あなたは命の道を私に知らせてくださる。御前には満ち足りた喜び、あなたの右の手には、とこしえの楽しみがある。
本シリーズ「詩篇を詠む」は、詩篇を一篇ずつ、三つの声を重ねて読み解きます。ユダヤ教の伝統的な注解(ラシー『詩篇注解』、ミドラッシュ・テヒリーム=ショヘル・トヴ、タルムード各所)、日本の聖書学者・青木澄十郎『詩篇の研究 ―― 詩篇の直訳と略解』(基督教文書伝道会、1959年)、そして「いつ、どのように詠まれてきたか」という祈り・典礼の視点です。本文中のページ番号は同書によります。ヘブライ語のカタカナ音写は朗読の目安です。



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