詩篇17篇 瞳のように守ってください ―― まぶたは、考えてから閉じない

詩篇 by 929

「眼の娘なる小さき人の如くに我を守り」。青木先生は第8節をこう直訳しました。ラシーは同じ語に、神がこの瞳のために備えられた守り ―― まぶた ―― を見ます。追われている人が求めたのは、気づく前にもう働いている守りでした。

いつ詠まれるか

表題は「ダビデの祈禱」。詩篇150篇のうち、表題に「祈禱」を掲げるのは、この17篇と86・90・102・142篇の五つだけです。青木先生は、この五篇がもともと一つの古い祈禱集を形づくっていたのだろう、と見ます。第72篇の末尾にある「ダビデの祈禱は終りぬ」は、その祈禱集の末尾に付いていた語が、たまたま72篇に残ったものであろう、と(49〜50頁)。本篇はその古い祈禱集から採られたのだろう、と。

固定した典礼の枠はありません。月三十日の詩篇通読では第2日(10〜17篇)の最後に置かれ、この日を締めくくります。

背景と作者

青木先生は、この詩をサムエル前記23章25節以下の場面に置きます。ジフの荒野でサウル王に追いつめられた記事とピッタリ合う、と(50頁)。逃げる者が、追手の足音を聞きながら祈っている詩です。

ラシーの見立ては違います。ダビデがこの祈りを唱えたのは、ウリヤとヨアブの一件が起きた後のことに思われる。イスラエルの軍はアンモンの地にあってラバを囲んでおり、ダビデは、自分の犯した罪のせいで彼らがそこで倒れるのではないか、それを聞きつけたペリシテ、モアブ、エドムが攻め上ってくるのではないかと恐れた ―― と(第11節への註)。

追われる青年と、罪を抱えた王。同じ言葉が、逃げる側からも、守る側からも読まれてきました。なおヘブライ語聖書も表題を第1節に含めるので、節番号のずれはありません。

注解を通して読む

第1節 耳を立てる

「ヤーウェよ、義よ、我が叫びに耳を傾聴し」。青木先生は「傾聴し」の原語に足を止めます ―― これは犬や猫などが耳を立てることに用いる字で面白い。神が正義の声に耳を欹(そばだ)てるのである、と(50頁)。そして「欺かざる」口唇から出る祈禱こそ、神の喜び給う地上の音楽である、と続けました。

第3節 夜に訪れる

「汝は我が心を考査し、深夜に訪づれ、我を試みて/何をも見出し給はず」。青木先生はこの節を、心に悪いものが起っても口を越えて出ないように注意するのであろう、と読みます(50頁)。

ラシーはこの「夜」に、具体的な一夜を当てました ―― 夕暮れどきの、バテシバの咎のことだ(サムエル記下11章2節)。そして「思っても口を越えさせない」を、こう読みます。もう一度あなたの前で試されたいという考えが浮かんでも、「主よ、私を試み、私を験してください」(26篇2節)とは二度と口にすまい、と。註には賢者たちの話が添えられています。ダビデが神に尋ねた ―― なぜ人は「アブラハムの神」と言い、「ダビデの神」とは言わないのですか。神は答えた ―― 私は彼を十の試みで試し、彼は全き者と見出された。そこでダビデは「私を試み、私を験してください」と願った、と。

口から出さないと読む青木先生、二度と願い出まいと読むラシー。どちらもこの節を、沈黙の訓練として受け取っています。

第4〜5節 車馬道と小径

青木先生は訳し分けに細かい注意を払います。第5節の現訳「途」は、原語では「車馬道」つまり大道である。神の方は車馬道、人の方は「径(こみち)」だ、と(50頁)。そして第4節の「汝の口唇の言葉によりて」から、ダビデがモーセの書を、神の御口唇から直接に聴く心で読んでいたことがわかる、と書きます。だから「其の足どりは揺がざりき」と言えたのだ、良心的に実行していたのである、と。

第8節 瞳のために備えられたまぶた

「眼の娘なる小さき人の如くに我を守り/汝の翼のかげにかくし給へ」。青木先生は、この面白い表現を原語のまま直訳しました。もちろん現訳の「瞳」のことだが、瞳の中に人の姿が小さく映るからこう呼んだものと思う、と。そして続けます ―― 神が我々を守り給うことは、我々が自分の眼を守るが如くで、無意識のときでも自働的に守るのである。神の御愛と御注意が注がれている、と(50頁)。

ラシーの註は語源から入ります。アイショーンとは眼の黒いところで、視力はここに懸かっている。黒いので、暗さを表すこの名で呼ばれる。そして ―― 聖なる方は、これに守りを備えられた。まぶたである。まぶたは絶えずこれを覆っている、と。

語源の説明は正反対です。青木先生は「小さな人が映るから」と読み、ラシーは「黒いから」と読む。それでいて二人は同じ場所に出ます。まぶたは、守ろうと考えてから閉じるのではありません。この詩が求めているのは、そういう守られ方です。

第14節 「死ぬべき人間」

「ヤーウェよ、凡人より……此世の凡人より」。青木先生は、この「人」の字が「死」という字と同根なので、本当は「死ぬべき人間」と訳したいのだが、と断ります(50頁)。彼らの享くべき分は此世であり、此世に生きる以外に何をも持たぬ人たちである、と。

ラシーも同じ語を「死ぬ者たち」と受け取り、そこから意外な方へ進みます ―― 私は、御手によって、自分の寝床の上で死ぬ者の一人でありたい。「メヘレド」とは、錆が浮くほど年を重ねてから死ぬ者のことだ、と。

同じ一語を、青木先生は「此世しか持たない人」の側に置き、ラシーは「畳の上で老いて死ぬ人」の側に置きました。

第15節 目がさめるとき

「されど我は義にありて汝の顔を見/目さむるとき汝の姿にて飽き足るを得べし」。青木先生は「目さむるとき」を来世に目がさめると解します。そしてすぐ付け加えました ―― ダビデ時代に来世の希望のあった事を疑う学者が多いけれど、と(51頁)。

ラシーの註は一行です。死者が眠りから目ざめるとき、あなたの御姿を見て飽き足りるだろう。

学者たちの疑いを承知のうえで踏みとどまった1959年の読みと、九百年前の北フランスの読みが、同じ一語の上で重なりました。

今日の私たちへ ―― 祈りとして

この詩は、追われている人の祈りです。獅子が身をかがめ、脂肪に包まれた者たちが囲み、足どりのすぐ後ろまで来ている。それでも中心にあるのは反撃の願いではなく、「瞳のように守ってください」という一行でした。

瞳は、自分では自分を守れません。守っているのはまぶたで、まぶたは考えるより速く閉じます。この詩が求めているのは、気づく前にもう働いている守りです。

そして最後の一行は、追手のことでも自分の潔白のことでもなく、目がさめる朝のことを言います。眠っているあいだ守られていた人だけが書ける終わり方でしょう。


今日のことば

詩篇 17:3

בָּחַנְתָּ לִבִּי פָּקַדְתָּ לַּיְלָה צְרַפְתַּנִי בַל־תִּמְצָא זַמֹּתִי בַּל־יַעֲבׇר־פִּי

バハンター リッビー、パカドター ライラー、ツェラフターニー バル ティムツァー、ザンモティー バル ヤアヴォル ピー

あなたは私の心を試し、夜に訪れ、私を練って、何も見いだされませんでした。私は、思っても口を越えさせません。

詩篇 17:8

שׇׁמְרֵנִי כְּאִישׁוֹן בַּת־עָיִן בְּצֵל כְּנָפֶיךָ תַּסְתִּירֵנִי

ショムレーニー ケイショーン バト アーイン、ベツェール ケナフェーハ タスティレーニー

瞳のように私を守り、あなたの翼の陰に私を隠してください。

詩篇 17:15

אֲנִי בְּצֶדֶק אֶחֱזֶה פָנֶיךָ אֶשְׂבְּעָה בְהָקִיץ תְּמוּנָתֶךָ

アニー ベツェーデク エヘゼー パネーハ、エスベアー ヴェハキーツ テムナーテーハ

されど私は、義のうちに御顔を仰ぎ、目がさめるとき、あなたの御姿に飽き足りるでしょう。


本シリーズ「詩篇を詠む」は、詩篇を一篇ずつ、三つの声を重ねて読み解きます。ユダヤ教の伝統的な注解(ラシー『詩篇注解』、ミドラッシュ・テヒリーム=ショヘル・トヴ、タルムード各所)、日本の聖書学者・青木澄十郎『詩篇の研究 ―― 詩篇の直訳と略解』(基督教文書伝道会、1959年)、そして「いつ、どのように詠まれてきたか」という祈り・典礼の視点です。本文中のページ番号は同書によります。ヘブライ語のカタカナ音写は朗読の目安です。

▶ 詩篇ライブラリー(全150篇の目次)

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