詩篇19篇 空と本は同じことをしている ―― 縫い目のない一篇

詩篇 by 929

前半は太陽、後半は律法。別々の詩を継いだように見えるこの一篇を、青木先生は「一貫している」と言い切ります。ラシーは同じ場所を、律法もまた太陽のように照らすからだ、と縫いました。二人の縫い目がぴたりと重なります。

いつ詠まれるか

この詩の最後の一行は、おそらく詩篇のうちでもっとも多く口にされている言葉です ―― 「わが口の言葉と、わが心の思いとが、御前に受け入れられますように」。ユダヤ教の中心の祈りアミダーは、朝も昼も夕も、この一句で閉じられます。一日三度、立って祈るたびに、人は詩篇19篇の最後の節で祈りを終えることになります。

篇全体は、安息日と祭日の朝の賛美の詩篇に加えられ、またトーラー授与を記念するシャブオットに詠まれてきました。空の光から始まって律法にたどり着く詩だからでしょう。月三十日の詩篇通読では第3日(18〜22篇)です。

青木先生も、この詩に個人的な愛着を隠しません ―― 幼少の頃から愛唱し、大部分暗記しているので、改訳するのが惜しい気がする。それで変更は最小限度に止める、と(59頁)。

背景と作者

表題は「伶長に。ダビデの歌」。青木先生は、構想も雄大で辞句も非常に美しい、と書き出します。そして本篇の急所をすぐに示しました ―― 本篇は不注意に読むと、七節以下は全く別の詩であると思える。が、実は天体と聖書とを一貫した、神の造化の首位にあるのである、と(59頁)。

第8篇が夜の天体から始めて神の姿を歌ったのに対し、この詩は夜から朝にかけての天を見る人間を歌った。黙々の中に語り給う神の声に耳を傾け、続いて同じ神が聖書の中から一層明らかに語り給うことを歌ったのである、と(59頁)。

ヘブライ語聖書は表題を第1節に数えます。以下、節番号は口語訳と同じです。

注解を通して読む

第1〜3節 声なき声

「もろもろの天は神の栄光を布告し/おほぞらは其の御手のわざを宣言す」。青木先生は、現訳の「あらはし」「示す」を「布告し」「宣言す」と改めた理由を正直に書きます ―― 美文としては改悪であるが、止むを得ぬ直訳である、と(59〜60頁)。第2節も「昼は昼に言を注ぎ、夜は夜に知識を示す」と直訳したい、次の句も「言なく語なく」としたいのだが、現訳が余り美しいので其儘にして置いた、と。

ラシーは、この「語る」が比喩であることを、詩そのものの中から説き起こします ―― 詩人自身がこの事を説明している。「語もなく、言葉もない」。天は人々と口をきくのではない。ただ、その線が全地に出て行き、人々を照らすので、そのことによって被造物のほうが神の栄光を語り、光る物のゆえに感謝し、祝福するのだ、と。

語っているのは天ではなく、天を見た人のほうだ ―― ラシーはそう読みました。

第4節 縄か、琴の糸か

「その琴の音は全地に出でゆき/そのことばは世界のはてにまで」。青木先生はここで訳を選び直します。原語は「線」または「縄」である。だから或学者は「準縄」を指すとして、神が全地を測量し熟知していると云う意味に解する。が、此字は「琴の線」にも用いられるので、私は「琴の音」と訳した、と(60頁)。

その「或学者」の側に、ラシーが立っています ―― 天の線が全地の面に張り渡されている。それゆえ「その言葉は世界のはてに」ある。人が皆、目にする不思議を語るからだ、と。

一語に二つの顔があり、青木先生は音のほうを、ラシーは張り渡された縄のほうを取りました。どちらを取っても、この節は「全地に届いている」という一点を守ります。続く句について青木先生は、神は地の涯に太陽の住む天幕を設定したという美しい構想である、と書きました。ラシーも「天幕を張られた」を天のこととし、ここから太陽は鞘の中に置かれていると学ばれる、と註しています。

第5〜6節 朝ごとに部屋を出る

「日は新郎が寝室を出づる如く/勇士が大道を馳するを喜ぶに似たり」。青木先生は、第5節の初めに原語では「日は」の文字がなく「彼は」とあることを断ったうえで、現訳の美しさを保存した、と書きます。そして第6節の「あたたまり」の原語は「熱」で、パレスチナのような所では寧ろ太陽の熱さを恐れた意味であるかも知れない、と(60頁)。

ラシーは「新郎が部屋を出るように」に一言だけ添えます ―― 毎朝である、と。そして「その熱を免れるものはない」には、もし太陽が最も低い天に置かれていたなら、人は誰もその熱から隠れることはできなかっただろう、と註しました。

美しい比喩の下に、暑さに閉口している土地の実感が同じように透けています。

第7〜9節 律法もまた照らす

「ヤーウェの律法は全くして霊魂を活きかへらす」。ここから詩は空を離れ、書物に移ります。青木先生が「別の詩に見えるが一貫している」と念を押したのは、この継ぎ目のことでした。

ラシーは、その継ぎ目を一語で縫います ―― 主の律法は全し。これもまた太陽のように照らすのだ。この段の終りに「目を明らかにする」とあるとおりであり、箴言6章23節に「戒めは灯、教えは光」とあるとおりだ、と。

青木先生は主題の連続として、ラシーは「照らす」という働きの同一として、それぞれ別の道からこの縫い目に手を掛けました。空と本は、同じことをしているのです。

二人は数え方まで似ています。青木先生は、第7節の「律法」「証詞」は単数語で聖書全体を指し、第8節の「誡命」は複数語で個々の教訓を指す、要するに全体としても、また一つ一つとしても讃美しているのである、と書きました(60頁)。ラシーは、律法・証詞・訓戒・誡命・畏れ・審判の六つの名を数えて、ミシュナの六つの部立てに対応する、と註します。全体と個々を同時に見るという読みが、ここでも重なります。

第12〜13節 水を一杯ください

「誰か己れの過失を悟り得んや/我を隠れたる想より解放ちたまへ」。そこから詩は、故意の罪、大いなる犯罪へと願いを進めていきます。

ラシーは、この順序に賢者たちの喩えを引きます。ダビデは何に似ているか ―― 戸ごとに回る者に。「水を一杯ください」、お金のかからないものだ。飲んでから「小さな玉葱はありませんか」。もらってから「塩なしの玉葱がありますか」。もらってから「玉葱で腹を痛めないよう、少しパンをください」。ダビデもそのように、まず過失について、次に故意の罪について、そのあとで背きについて願ったのだ、と(ミドラッシュ・テヒリーム、レビ記ラッバー)。

青木先生は、聖書の倫理的効用を説き、第14節の祈禱で結んでいる、とだけ書きます。そして急所を押さえました ―― 「口の言」だけでなく「心の思念」が神に悦ばれるのが、我らの祈願であらねばならぬ、と(60頁)。

今日の私たちへ ―― 祈りとして

この詩は、外から内へ降りてきます。もろもろの天、おおぞら、天のはてから出る太陽、その熱。それから律法、証詞、誡命。そして最後に、隠れた過失、故意の罪、自分の口から出る言葉、自分の心の中の思い。

いちばん大きなものから始めて、いちばん小さなものに着く。しかも途中に縫い目がありません。空を照らしている光と、本を照らしている光と、目を明らかにしている光は、同じ一つの光だからです。

そして最後の一行は、いまも一日三度、立って祈る人の口から出ています。朝ごとに部屋を出る新郎のように始まった詩が、誰にも聞こえない心のつぶやきのところで終わる ―― 詩篇のうちで、これほど遠くまで行って、これほど近くに帰ってくる詩は多くありません。


今日のことば

詩篇 19:2(口語19:1)

הַשָּׁמַיִם מְסַפְּרִים כְּבוֹד־אֵל וּמַעֲשֵׂה יָדָיו מַגִּיד הָרָקִיעַ

ハシャマーイム メサペリーム ケヴォード エール、ウマアセー ヤダーヴ マッギード ハラキーア

もろもろの天は神の栄光を語り、おおぞらは御手のわざを告げる。

詩篇 19:8(口語19:7)

תּוֹרַת יְהֹוָה תְּמִימָה מְשִׁיבַת נָפֶשׁ עֵדוּת יְהֹוָה נֶאֱמָנָה מַחְכִּימַת פֶּתִי

トーラト アドナイ テミマー メシーヴァト ナーフェシュ、エドゥート アドナイ ネエマナー マフキーマト ペーティ

主の律法は全く、魂を生き返らせ、主の証しは確かで、無知な者を賢くする。

詩篇 19:15(口語19:14)

יִהְיוּ־לְרָצוֹן אִמְרֵי־פִי וְהֶגְיוֹן לִבִּי לְפָנֶיךָ יְהֹוָה צוּרִי וְגֹאֲלִי

イフユー レラツォーン イムレー フィー ヴェヘグヨーン リッビー レファネーハ、アドナイ ツリー ヴェゴアリー

わが口の言葉と、わが心の思いとが、御前に受け入れられますように。主よ、わが巌、わが贖い主よ。


本シリーズ「詩篇を詠む」は、詩篇を一篇ずつ、三つの声を重ねて読み解きます。ユダヤ教の伝統的な注解(ラシー『詩篇注解』、ミドラッシュ・テヒリーム=ショヘル・トヴ、タルムード各所)、日本の聖書学者・青木澄十郎『詩篇の研究 ―― 詩篇の直訳と略解』(基督教文書伝道会、1959年)、そして「いつ、どのように詠まれてきたか」という祈り・典礼の視点です。本文中のページ番号は同書によります。ヘブライ語のカタカナ音写は朗読の目安です。

▶ 詩篇ライブラリー(全150篇の目次)

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