戦車三万二千の敵を前にした歩兵の国が、留守の都から送り出した祈りです。青木先生はこの詩を二十一篇と一対の「出陣の祈願」と読み、ラシーは、ダビデがヨアブと全軍を送り出して都に残り、彼らのために祈った詩だと註しました。祈っている人は、戦場にいません。
いつ詠まれるか
この詩は、ユダヤ教の平日の朝の祈りのしめくくりに、毎日詠まれます。アシュレイのあと、ウヴァ・レツィヨンの前 ―― アミダーを唱え終えたところで「主が悩みの日にあなたに答え」と始まる位置です。
悔い改めの祈りを省く日 ―― 祭日や新月、プーリムなど ―― には、この詩も省かれます。悩みの日の詩だからです。月三十日の詩篇通読では第3日(18〜22篇)にあたります。
背景と作者
表題は「伶長に。ダビデの歌」。青木先生は開口一番、本篇と次の篇とは一対を為すのであって、共に戦争の時に王のために献げた祈祷である、と書きます。本篇は祈願で、二十一篇は感謝である、と(61頁)。「ダビデの歌」とあるけれども、ダビデのために作れる歌と解してよかろう、とも。
その戦争を、青木先生はサムエル記下10章のアンモン・スリヤ連合軍との戦いに定めます。敵は戦車三万二千乗(歴代志上19章7節)に騎兵その他を合わせて四万以上。対するイスラエルは、モーセの律法により常備軍は無く、軍馬を蓄うる事は禁ぜられていた(申命記17章16節)。ダビデの手にあるのは、訓練の行き届かない歩兵だけです。しかもこの時期、彼はバテシバの罪をナタンに責められて良心に苦しんでいる。されば内外の敵に苦しめられ「なやみ」は深刻であった、と(61頁)。
ラシーは、戦場の側ではなく都の側から同じ場面を見ます ―― この詩は、ダビデがヨアブと全イスラエルを戦に送り出し、自分はエルサレムに立って彼らのために祈った、そのことによる。サムエル記下18章3節のとおりだ。そして一言添えました ―― ダビデがいなければ、ヨアブは戦に勝てなかっただろう。
青木先生は敵の戦車の数から、ラシーは都に残った王の姿から、それぞれこの詩の座を突きとめました。二人が指す一点は同じです ―― 祈っている人は、戦場にいない。
注解を通して読む
第1〜2節 助けは送られてくる
「聖所より汝の祐助を送り/シオンより汝を支へ」。青木先生はまず「なやみ」の原語をつかまえます ―― これは「狭い」といふ意味で「窮地に陥る」と訳したい字である、と(61頁)。
そして、戦争はヨルダン河の向うで行われるのだから第二節の「祐助を送り」の語が生きている、と書きます。「シオンより汝を支へ」は、ヤーウェ自身の腕をシオンから戦場まで伸ばしてダビデを支へることを祈ったのである、と(62頁)。
ラシーも「聖所より」を場所として読みました ―― 神が住まわれる、その聖なる宮から、と。
どちらも比喩に逃げません。助けには出発点があり、届く先があります。
第3節 供え物を憶えてください
「汝の凡ての供物を憶へ/汝の燔祭を脂肪と見給へ セラ」。青木先生は、現訳の方がわかりよいが此れは意訳であって直訳でない、と断ったうえで、「燔祭を脂肪と見る」と云う語は、最も善き燔祭として受入れられる意味である、と説きます(62頁)。
ラシーは、この供え物をそのまま祈りに読み替えました ―― 「あなたの素祭……燔祭」、それは戦の中であなたがたが祈る祈りである。「脂肪と見る」の原語は脂を表す語で、つまり神は、脂の乗った燔祭のようにそれらを快く受け入れてくださる、と。
一方は祭壇の火を、もう一方は戦場の祈りを見ています。それでも同じ一語から二人が取り出したのは、「快く受け取られる」という一点でした。
第5節 旗を揚げるか、旗のもとに集まるか
「我らの神の名により大旆を樹てん」。青木先生は現訳の「旗」を「大旆」と改めました ―― 複数であるから各部隊の旗だろう、と(62頁)。ラシーは同じ語をまったく別に取ります ―― 集まって、力を成そう、と。旗を立てるのか、旗のもとに集まるのか。どちらにせよ、ばらばらの歩兵が一つの名のもとで形を成す瞬間です。
第6節 「今わたしは知る」
「今われ知る、ヤーウェは其の受膏者を救ふことを」。青木先生はここを詩の急所とみます ―― 此処では「今知る」が肝要な文字である。「偉業」の原語は「驚く可き力」である、と(62頁)。
ラシーも、同じ節を詩の折り返しに置きました ―― これは、ヨアブとイスラエルに来たこの救いについて、今われわれが歌う讃美である。神が私を望まれ、その聖なる天から私に答えてくださったことを、私は知った。彼らの救いは私の救いだからだ、と。
祈願の詩の途中で、時制が変わります。青木先生は「今」の一語を、ラシーは「彼らの救いは私の救い」の一句を、この転回の証拠にしました。留守の祈りが聞かれたことは、留守にいる人にも分かるのです。
第7〜8節 持たざる者が唱えるもの
「或者は兵車に、或者は馬に。されど我らは我らの神ヤーウェの名を誇らん」。青木先生は、戦車や騎兵に対して歩兵のイスラエル軍は最初は伏せているだろう、それが今や「起上って」突貫するのである、と描きました(62頁)。
ラシーは「誇らん」の原語に註を付けます ―― ある国民は鉄の戦車を頼み、ある者は馬を頼む。しかし我らは主の名によって「唱える」。救いは主のものだからだ。この語は、香を焚くことと祈ることを表す、と。
そこで第3節の供え物が戻ってきます。持たざる者が唱えるのは、名だけです。
今日の私たちへ ―― 祈りとして
この詩には、戦っている人の声が一度も出てきません。声を出しているのは、都に残って送り出した側です。だから「なやみの日」は、必ずしも自分のなやみではありません。誰かの窮地を、離れた場所から見ている日でもあります。
できることは多くありません。助けが送られるように、積んできたものが憶えられるように、心の願いと計画が遂げられるように願う ―― それだけです。青木先生は、そこに釘を刺しました。神の援助は我々が最善を尽す所に与えられるのである。神に侍むのは自分の計画を軽卒にしてよいと云うわけではない、と(62頁)。祈るからこそ、深謀熟慮が要ります。
そして最後の一行で、詩は祈っている人自身に戻ります ―― 「主よ、王に勝利をおさずけください。われらが呼ばわる時、われらにお答えください」。送り出した側もまた、答えを必要としているのです。
今日のことば
詩篇 20:2(口語20:1)
יַעַנְךָ יְהֹוָה בְּיוֹם צָרָה יְשַׂגֶּבְךָ שֵׁם אֱלֹהֵי יַעֲקֹב
ヤアンハー アドナイ ベヨーム ツァラー、イェサッゲヴハー シェーム エロヘー ヤアコーヴ
主が悩みの日にあなたに答え、ヤコブの神の名があなたを高く上げますように。
詩篇 20:8(口語20:7)
אֵלֶּה בָרֶכֶב וְאֵלֶּה בַסּוּסִים וַאֲנַחְנוּ בְּשֵׁם־יְהֹוָה אֱלֹהֵינוּ נַזְכִּיר
エッレ ヴァレーヘヴ ヴェエッレ ヴァススィーム、ヴァアナフヌー ベシェーム アドナイ エロヘーヌ ナズキール
ある者は戦車を、ある者は馬を。しかし私たちは、私たちの神、主の名を唱えます。
詩篇 20:10(口語20:9)
יְהֹוָה הוֹשִׁיעָה הַמֶּלֶךְ יַעֲנֵנוּ בְיוֹם־קָרְאֵנוּ
アドナイ ホシーアー、ハメーレフ ヤアネーヌ ヴェヨーム コルエーヌ
主よ、救ってください。私たちが呼ぶ日に、王が私たちに答えてくださいますように。
本シリーズ「詩篇を詠む」は、詩篇を一篇ずつ、三つの声を重ねて読み解きます。ユダヤ教の伝統的な注解(ラシー『詩篇注解』、ミドラッシュ・テヒリーム=ショヘル・トヴ、タルムード各所)、日本の聖書学者・青木澄十郎『詩篇の研究 ―― 詩篇の直訳と略解』(基督教文書伝道会、1959年)、そして「いつ、どのように詠まれてきたか」という祈り・典礼の視点です。本文中のページ番号は同書によります。ヘブライ語のカタカナ音写は朗読の目安です。



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