前の篇が出陣の朝の祈りなら、この篇は凱旋の日の感謝です。青木先生は「純金の王冠」の一句にサムエル記下12章30節を引き、ラシーもまた同じ節を引きました。日本の一人の聖書学者と十一世紀のラビが、まったく別の道を通って同じ一行に着いています。
いつ詠まれるか
月三十日の詩篇通読では第3日(18〜22篇)。前の二十篇に続けて詠まれる位置にあります。
ユダヤ教の伝統では、この詩は早くから終わりの日の王 ―― メシア ―― の詩として読まれてきました。ラシーは冒頭で、私たちの師たちはこれをメシアなる王について解いた、と紹介し、そのうえで、ダビデ自身のこととして読むほうが正しく通る、と続けます。ミドラッシュ・テヒリームにも同じメシア読みがあります。
背景と作者
表題は「伶長に。ダビデの歌」。青木先生の第一声は、前の篇との関係でした ―― 本篇は前篇と一対を為すもので、前篇の四節に「汝の心の願望に随ひて汝に与へ」と祈っているが、本篇は其れが悉く与えられた事の感謝である、と(63頁)。
そして人物描写が入ります ―― 兎に角トテモ大きい感謝で、王はヂッとしていられなかった有様が第一節から躍如としている(63頁)。
その大歓喜の中身も、青木先生は特定しました ―― 三節によってアンモンを全滅させた戦勝の歓喜であった事が推測される。アンモンの王城ラバを陥落させて一タラントの純金の王冠を獲た記事(サムエル記下12章30節)と符節を合わす如くである、と(64頁)。大戦争に勝ち、病も医され、分捕品も多い。それを自分の誇りとせず、ヤーウェの祝福として感謝する詩だ、というわけです。
注解を通して読む
第3節 純金の王冠
「そは汝は善きものの祝福をもて彼を出で迎へ/純金の王冠を彼の首に置き給へり」。青木先生は、この凱旋の様子をヤーウェが「善きものの祝福をもて彼を出で迎へ」たと歌ったのである、と書きます(64頁)。
ラシーの註はこうです ―― 「あなたは彼の頭に純金の冠を置かれた」。すなわち「彼はマルカムの冠を取った……そしてそれはダビデの頭にあった」(サムエル記下12章30節)と。
同じ節です。青木先生は分捕品の記事と詩の内容を突き合わせて、ラシーは「冠」という一語から旧約の並行箇所をたぐって、まったく別の道からサムエル記下12章30節に着きました。このシリーズでいちばん見たいのは、こういう一致です。
ラシーは前半にも註を付けます ―― 私が願う前に、あなたは預言者ナタンを通して祝福を先に与えてくださった(サムエル記下7章12節以下)と。願う前に、もう来ていた祝福です。
第4節 命を願って、与えられた
「かれ汝より生命を求めしに汝は彼に与へたり/永遠に亙る永き日なり」。青木先生は、前篇には王が病気である様子は見えないが本篇には四節に生命を許された感謝である、と読みました(63頁)。
ラシーは別の場面を思い浮かべます ―― サウルの前を逃れて聖なる地の外にいたとき、私は「生ける者の地で主の前に歩まん」(詩篇116篇9節)と祈っていた。「与えた」とは、私をイスラエルの地に帰らせてくださったことだ、と。
病から戻ったのか、亡命から戻ったのか。読みは分かれます。それでも二人とも、この「生命」を抽象語にはしませんでした。
第6節 御顔の「前」か、御顔を「もって」か
「汝の顔をもて歓喜の中に悦ばせ給へば也」。青木先生は前置詞を選び直します ―― 「前」でなく「以て」である。ヤーウェが御自分の輝かしい顔を以て歓喜を生ぜしめるのである、と(64頁)。
ラシーはそこを場所として読みました ―― 「あなたの御顔の前で」、すなわち楽園で、と。
同じ二語が、一方では喜びの源になり、一方では喜びの場所になります。
第8〜9節 「汝」は誰か
「汝の手は汝の凡ての敵を捜し出し」。青木先生はここで呼びかけの相手が替わると見ます ―― 第八節からの「汝」はヤーウェでなく王に向って言うのである。ダビデの「手」がアンモン人の根拠地にまで及んだ事を言う、と(64頁)。
ラシーは、そのまま神に向けたまま読みます ―― あなたが下すべき御手の打撃はすべて、あなたの敵の上に下してください、と。
次の節でも二人は分かれました。「汝の顔の時」を、ラシーは「あなたの憤りの時」と註します。青木先生はこの読みを退けました ―― ヘブル語で「顔」の字を「怒」と解してよい時もあるが、茲では其のまつすぐに「顔」と解する。ダビデが戦場に顔を出したとき、敵を「火炉」の如くするとの意味であろう。ナゼなればヤーウェ自身がダビデの為めに怒って下さるからである、と(64頁)。その「火炉」に青木先生は史実を当てます ―― サムエル記下12章31節、アンモン人を「瓦やきの竈の中を通行せしめたり」とある記事です。
第13節 声と楽器で
「高く挙げられ給へ、ヤーウェよ、汝の力の中に」。青木先生は、最後に声と楽器とを以て讃美している、と結びました(65頁)。ラシーも一言 ―― 立ち上がる者たちの上に高くあってください、そして私たちは歌い、奏でよう。
第1節の「汝の力によりて王はよろこび」が、最後の節で「汝の力の中に高く挙げられ給へ」に戻ります。王の喜びで始まり、神の力で終わる詩です。
今日の私たちへ ―― 祈りとして
感謝の詩としては、この詩は落ち着きがありません。青木先生の言うとおり、王はヂッとしていられない。祝福も、王冠も、命も、栄光も、次々に数え上げられます。
けれども数え上げられたものの中に、王が自分で取ってきたものは一つもありません。冠は「置かれ」、命は「与えられ」、祝福は先に「来て」いました。青木先生が第6節を「彼を永遠の祝福と為し」と直したのも、ここに関わります ―― ダビデ自身が「福なる者」となったとの意味ではなく、ダビデが人々の祝福となったと云う意味だと思う、と(64頁)。受け取った人が、次の人への祝福になる。
後半は、敵の子孫まで滅ぼす願いに向かいます。読んで楽な箇所ではありません。青木先生は、古代の戦争には普通であった、道徳的に彼らを全滅しなければ其の罪悪が伝染する危険もあったのである、と時代の事情を書きました(64頁)。ラシーは同じ箇所を、はるか後の帝国への祈りに読み替えました。どちらも、この詩を今日そのまま誰かに向けて唱えるための註ではありません。
残るのは、最初と最後の一行です ―― 力はあなたのもの。喜びは、そこから来ます。
今日のことば
詩篇 21:2(口語21:1)
יְהֹוָה בְּעָזְּךָ יִשְׂמַח־מֶלֶךְ וּבִישׁוּעָתְךָ מַה־יָּגֶל מְאֹד
アドナイ ベオッゼハー イスマフ メーレフ、ウヴィシュアーテハー マ ヤーゲル メオード
主よ、あなたの力によって王は喜び、あなたの救いによって、どれほど大きく躍り上がることでしょう。
詩篇 21:5(口語21:4)
חַיִּים שָׁאַל מִמְּךָ נָתַתָּה לּוֹ אֹרֶךְ יָמִים עוֹלָם וָעֶד
ハイーム シャアール ミンメハー ナタッター ロー、オーレフ ヤミーム オラーム ヴァエード
彼は命をあなたに願い、あなたはそれを彼に与えられました。日の長さを、世々かぎりなく。
詩篇 21:14(口語21:13)
רוּמָה יְהֹוָה בְּעֻזֶּךָ נָשִׁירָה וּנְזַמְּרָה גְּבוּרָתֶךָ
ルーマー アドナイ ベウッゼーハ、ナシーラー ウネザンメラー ゲヴラテーハ
主よ、あなたの力のうちに高くあってください。私たちはあなたの大能を歌い、奏でます。
本シリーズ「詩篇を詠む」は、詩篇を一篇ずつ、三つの声を重ねて読み解きます。ユダヤ教の伝統的な注解(ラシー『詩篇注解』、ミドラッシュ・テヒリーム=ショヘル・トヴ、タルムード各所)、日本の聖書学者・青木澄十郎『詩篇の研究 ―― 詩篇の直訳と略解』(基督教文書伝道会、1959年)、そして「いつ、どのように詠まれてきたか」という祈り・典礼の視点です。本文中のページ番号は同書によります。ヘブライ語のカタカナ音写は朗読の目安です。



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