「わが神、わが神、なにゆえ」で始まるこの詩を、青木先生は十字架の記述として読み、ラシーは捕囚とエステルの物語として読みました。読みは大きく分かれます。それでも第15節の一語で、二人はまったく同じところに立っています。
いつ詠まれるか
表題の「あけぼののめじか(アイェレト・ハシャハル)」を、タルムードはエステルのこととして読みます(メギラー15b)。夜明けの最初の一条の光にたとえられた人です。そこからこの詩はプーリムの詩となり、ヴィルナ・ガオンの定めではプーリムの「その日の詩篇」として、セファルディムの諸共同体では祭りの晩の祈りに詠まれてきました。
前の二十篇が、悔い改めの祈りを省くプーリムには唱えられないことを思うと、順番がおもしろく見えます。悩みの日の詩が引っこみ、暗闇の底から始まる詩が出てくるのです。
月三十日の詩篇通読では第3日(18〜22篇)です。
背景と作者
青木先生の立場ははっきりしています ―― 本篇はイザヤ書五十三章と共にキリストの御苦しみの予言として有名なものである。予言したと言うよりも寧ろ詳細に記述したと言いたい程である、と(67頁)。
作者については堅実です。エレミヤの作とする批評学者もあるが、「ダビデの歌」との頭書を否定するだけの力は無い。寧ろ内容から見てダビデらしい口調である、と(68頁)。迫害の原因は、ダビデが預言者サムエルによって膏をそそがれたことに置きました。されば神に選ばれた為に受けた迫害だから使命の為の苦難である、と。
構成の見立ても明快です ―― 一節から二十一節までが心と肉体との苦難で、二十二節から三十一節まで苦難後の使命と光栄とである、と(68頁)。
ラシーは、まったく別の時間を見ています ―― 彼らはやがて捕囚に行くことになる。ダビデはこの祈りを、来たるべきときのために詠んだのだ、と。第6節「我は蛆虫にして人に非ず」にも、全イスラエルを一人の人になぞらえているのだ、と註しました。個人の受難ではなく、民の歴史の詩として読むのです。
注解を通して読む
第15節 唾が乾く
「わが唾液は瓦片の如くに乾き/わが舌はわが顎にひたつけり」。青木先生は現訳「わが力は乾きて」をこう改めました。少し無理かも知れぬが、意味がよく通る、と自分で断ったうえで、イエスの「我渇く」(ヨハネ伝19章28節)にピツタリする、と書いています(68頁)。
ラシーは、同じ節の「顎(マルコハイ)」に註を付けます ―― これは口蓋である。人が苦しみの中にあるとき、その口には唾が無い、と。
一方は「力」の語を「唾液」に読み替え、もう一方は「顎」の語から唾のない口を説きました。まるで違う手つきです。それでも二人が取り出した像は同じでした ―― 口の中が乾ききっている。
第16節 「獅子のごとく」か「掘り穿つ」か
「わが手わが足を掘り穿てり」。旧約でもっとも有名な本文の難所です。青木先生は正直に書きます ―― 尤も原文では「我が手わが足を、獅の如く」とある。併しそれでは意味がわからぬ。「獅の如く」の原語を動詞とし「掘り穿つ」と訳している、と(67頁)。そしてこの読みを、ダビデ自身にはかような事は無かったが十字架には符合する、という論の柱に据えました。
ラシーは、原文のまま読みます ―― 「獅子のごとく、わが手わが足」。あたかも獅子の口の中で砕かれるかのようだ。ヒゼキヤも「獅子のように、わたしの骨をことごとく砕かれる」(イザヤ書38章13節)と言ったとおりだ、と。
同じ二語の前で、一方は「意味が通らない」と言って動詞に取り、もう一方は「通る」と言ってそのまま置きました。この一行の上で読みが分かれてきた歴史が、二つの註にそのまま出ています。
第22節 兄弟らに ―― 輪が広がりはじめる
「汝の名をわが兄弟らに宣べ伝へ/集会の中央にて我は汝を讃美せん」。詩がここで折り返します。青木先生はこの節と第27節「異邦民の諸族は皆みまへに伏拝すべし」を並べました ―― 自国民への宣伝から異邦人への宣伝まで考えている。ダビデは此詩想で先鞭をつけたのである、と(68頁)。
ラシーもまた、この節で輪が広がると読みます ―― 私の集会が集まるたびに、彼らに「主を畏れる者よ、彼を讃美せよ」と言おう。これは改宗者たちのことであり、また「ヤコブのすべての裔」のことである、と。
外から入ってきた人が、この節ですでに数に入っています。青木先生は宣教の広がりとして、ラシーは会衆の顔ぶれとして、同じ地点から輪が開くのを見ました。
第26節 食べて、飽きて
「謙卑なる者は食ひて飽き/……願くは汝らの心とこしへに生きんことを」。青木先生は、ここが少しわかりにくい、と断ってから解きます ―― 前節の「わが誓願を果さん」の続きで、満願の祝の食物を「謙卑なる者」即ち貧乏人に頒ち与え、彼らを祝福して「汝らの心とこしへに生きんことを」と言ふのである、と(69頁)。
ラシーの註も同じ向きです ―― 「あなたがたの心がとこしえに生きるように」、これはみな、私が彼らの前で語る言葉である、と。食べている人たちに向かって言われている、という点で二人は一致しました。ラシーはそのうえで、この食事を「われらの贖いのとき、メシアの日々に」置いています。
今日の私たちへ ―― 祈りとして
この詩は、詩篇のうちでもっとも遠いところから始まります。答えのない昼と、沈黙のない夜。青木先生はそれを、ダビデが「咆ゆる」ほどに神に叫んでも御答がなく全く「棄て」られた感を以て訴えている、と書きました(68頁)。
ところが第21節の終わりで、何の説明もなく「汝われに答へ給へり」に変わります。何が起きたのかは書かれていません。書かれているのは、そのあとに何をするかだけです ―― 名を兄弟に告げる。会衆の中で讃美する。誓願の食物を貧しい人に分ける。地のはてまで伝わっていく。
そして最後の一行は、まだ生まれていない人に向かいます。青木先生はここに二つの広がりを見ました ―― 世界的に広く異邦人まで、時間的に永く子々孫々まで伝えられる、と(69頁)。
苦しみの理由は、この詩のどこにも書かれていません。書かれたのは、そこから何が出ていったかです。読みが千年にわたって分かれ続けたこの詩が、それでも同じ一つの言葉として読み継がれてきた ―― それ自体が、最後の一行の実例かもしれません。
今日のことば
詩篇 22:2(口語22:1)
אֵלִי אֵלִי לָמָה עֲזַבְתָּנִי רָחוֹק מִישׁוּעָתִי דִּבְרֵי שַׁאֲגָתִי
エリー エリー ラマー アザヴターニ、ラホーク ミシュアティー ディヴレー シャアガティー
わが神、わが神、なにゆえ私を捨てられたのですか。私の救いから遠く、私のうめきの言葉から遠く。
詩篇 22:12(口語22:11)
אַל־תִּרְחַק מִמֶּנִּי כִּי־צָרָה קְרוֹבָה כִּי אֵין עוֹזֵר
アル ティルハク ミンメンニ キー ツァラー ケロヴァー、キー エーン オゼール
私から遠く離れないでください。悩みが近いのに、助ける者がいないのです。
詩篇 22:23(口語22:22)
אֲסַפְּרָה שִׁמְךָ לְאֶחָי בְּתוֹךְ קָהָל אֲהַלְלֶךָּ
アサペラー シムハー レエハーイ、ベトーフ カハール アハレレッカ
私はあなたの名を兄弟たちに語り伝え、会衆の中であなたを讃美します。
本シリーズ「詩篇を詠む」は、詩篇を一篇ずつ、三つの声を重ねて読み解きます。ユダヤ教の伝統的な注解(ラシー『詩篇注解』、ミドラッシュ・テヒリーム=ショヘル・トヴ、タルムード各所)、日本の聖書学者・青木澄十郎『詩篇の研究 ―― 詩篇の直訳と略解』(基督教文書伝道会、1959年)、そして「いつ、どのように詠まれてきたか」という祈り・典礼の視点です。本文中のページ番号は同書によります。ヘブライ語のカタカナ音写は朗読の目安です。



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