詩篇23篇 乾いた森で ―― 安心の詩が生まれた場所

詩篇 by 929

「主はわが牧者、私は乏しからず」。この一行は豊かな牧場ではなく、土器のように干からびた森で詠まれたとラシーは伝えます。青木先生もまた、この詩には三つの暗い影があると書きました。安心の詩は、安心な場所からは生まれていません。

いつ詠まれるか

ユダヤの家庭では、安息日の食卓、とくに日の傾くころの第三の食事(セウダー・シュリシート)にこの詩が歌われます。また葬りと喪の場で唱えられ、慰めの詩として最も広く知られたものになりました。

月三十日の詩篇通読では第4日(23〜28篇)です。

背景と作者

青木先生の見立ては率直です ―― 著者はダビデであらう。アブサロムの反逆が治まった後だろうと推測する人もあるが、兎に角穏平を想わせる、と(70頁)。国家を代表した或人の作だろうという説には、此詩の個人的感情に気付かぬ人はどうかしている、と切り捨てました。そして、個人の体験ほど普遍的なものはない、と続けます。

ラシーはもっと具体的な場所を挙げます ―― ダビデはこの詩をヘレテの森で詠んだ(サムエル記上22章5節)。なぜヘレテと呼ばれたか。土器のかけら(ヘレス)のように乾ききっていたからで、聖なる方がそれを来たるべき世の良きもので潤されたのだ、と(ミドラッシュ・テヒリーム23)。

穏やかさを見た人と、干からびた森を見た人。どちらも、この詩を逃亡の日々に置いています。

注解を通して読む

第1節 牧者のたとえが、わからない

青木先生は、わからないと書くところから始めます ―― 牧畜業に親しまぬ我らには本当の味はわからぬ。が先般兎を飼って以来、如何に可愛いものであるか少しはわかったように思う、と(70頁)。そのうえでダビデ自身の言葉、獅子と熊から羔を救い出した話(サムエル記上17章34〜35節)を引き、自分の生命を賭しても羔を救う、ヤーウエは斯ういう御方である、と結びました。

ラシーも同じ節を、自分のいる場所に引き下ろします ―― 私が今行くこの荒野で、何一つ欠けることはないと確信している、と。

一方は兎小屋から、もう一方は荒野から、同じ比喩に手を伸ばしています。

第3節 もとに返す

青木先生の訳は「わが霊魂を返らせ」。癒すでも満たすでもなく、返らせる、です。

ラシーの註も同じ動きをします ―― 苦難と逃走によって弱った私の霊を、元の状態に戻してくださる、と。

新しいものが与えられるのではありません。あったものが、あった場所に戻される。訳語を選んだ人と、註を書いた人が、別々の道から同じ一点に立っています。

第4節 三つの暗い影

青木先生はここで、この詩の明暗をきれいに整理しました ―― 「青草の牧場」「いこひの水ぎわ」は保証されている。但し暗黒が三つある。「死の蔭の谷」「汝の笞」「敵に向ひて」の三つである、と(70頁)。そして死の蔭の谷を、全く暗黒で見当のつかぬ不安な境涯である、神の御教育である、と読みます。

ラシーは、この谷を地図の上に置きます ―― ツァルマヴェトは闇の地であり、ジフの荒野を指す、と。笞と杖についてはこう註しました ―― 私に臨んだ苦しみと、あなたの慈しみに寄りかかるという支え。その両方が私を慰める。それらは私の咎を贖うことになるからだ、と。

神の御教育、罪の贖い。言い方は違いますが、二人とも笞を罰の道具としては読んでいません。取り扱いの道具として読んでいます。

第5節 敵の前の食卓

青木先生はここを、こう受け取りました ―― 人生は戦争で我々にはいつも敵がある。が神が敵前にも「宴を備へ」給う。余裕綽々でなければなるまい、と(70頁)。

ラシーは前の節の註の終わりで、すでにこの食卓に手を伸ばしています ―― 私は確信している、あなたが私の前に食卓を整えてくださると。それは王位のことである、と。

余裕綽々と、王位。ずいぶん違う言葉です。それでも二人が見ているのは同じ場面でした ―― 敵がまだそこにいるのに、食事が始まっている。

今日の私たちへ ―― 祈りとして

最後の一節で、青木先生は正直に困ります ―― 最後の一節は余りに楽観的で事実我々には相当しないと思われるが、と(70頁)。そのうえで、新約の我々には来らんとする天国の幸福を現世から予感することになるだろう、と書き添えました。

ラシーは、第6節に何も註していません。付け足すことがなかったのだと思います。

この詩が乾いた森で詠まれたのなら、「青草の牧場」は目の前にあった風景ではありません。乾いた場所で口に出された言葉です。乏しからず、と言い切ったとき、手元には何もなかったのかもしれません。

それでもこの詩は、慰めの詩として三千年読み継がれました。安心があったから詠まれたのではなく、詠んだから安心が置かれた ―― そういう順序の詩なのだと思います。


今日のことば

詩篇 23:1

מִזְמוֹר לְדָוִד יְהֹוָה רֹעִי לֹא אֶחְסָר

ミズモール レダヴィド、アドナイ ローイー ロー エフサール

ダビデの歌。主はわが牧者、私は乏しいことがない。

詩篇 23:4

גַּם כִּי־אֵלֵךְ בְּגֵיא צַלְמָוֶת לֹא־אִירָא רָע כִּי־אַתָּה עִמָּדִי שִׁבְטְךָ וּמִשְׁעַנְתֶּךָ הֵמָּה יְנַחֲמֻנִי

ガム キー エレフ ベゲー ツァルマーヴェト ロー イラー ラー、キー アッター イムマディー、シヴテハー ウミシュアンテハー ヘムマー イェナハムーニ

たとい死の陰の谷を歩んでも、私はわざわいを恐れません。あなたが私と共におられるからです。あなたの笞とあなたの杖、それらが私を慰めます。

詩篇 23:6

אַךְ טוֹב וָחֶסֶד יִרְדְּפוּנִי כָּל־יְמֵי חַיָּי וְשַׁבְתִּי בְּבֵית־יְהֹוָה לְאֹרֶךְ יָמִים

アフ トーヴ ヴァヘセド イルデフーニ コール イェメー ハイヤーイ、ヴェシャヴティー ベヴェート アドナイ レオーレフ ヤミーム

ただ善きことと慈しみとが、私の生涯のすべての日、私を追ってくるでしょう。私は主の家に、日の続くかぎり住みます。


本シリーズ「詩篇を詠む」は、詩篇を一篇ずつ、三つの声を重ねて読み解きます。ユダヤ教の伝統的な注解(ラシー『詩篇注解』、ミドラッシュ・テヒリーム=ショヘル・トヴ、タルムード各所)、日本の聖書学者・青木澄十郎『詩篇の研究 ―― 詩篇の直訳と略解』(基督教文書伝道会、1959年)、そして「いつ、どのように詠まれてきたか」という祈り・典礼の視点です。本文中のページ番号は同書によります。ヘブライ語のカタカナ音写は朗読の目安です。

▶ 詩篇ライブラリー(全150篇の目次)

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