契約の櫃が戦から帰り、シオンの門に着きます。青木先生はここに二隊の交唱を細かく復元し、ラシーは門が開かなかったという伝承を伝えました。形式から入った人と物語から入った人が、同じ「門の前の待機」に行き着きます。
いつ詠まれるか
この詩は、週の第一日(日曜)の「その日の詩篇」です。さらに平日の朝、朗読を終えた律法の巻物を箱に戻すとき、会衆はこの詩を歌いながら巻物を送ります。箱に納まるまでのあいだの詩 ―― 後で見るとおり、これは青木先生の見立てと寸分たがいません。
月三十日の詩篇通読では第4日(23〜28篇)です。
背景と作者
青木先生の要約は簡潔です ―― 此れはヤーウエの凱旋の歌である。モーセの十誡を容れた契約の櫃は神の臨在の表徴として戦場にかつぎ出されたが、戦争に勝って今やシオンにある神の宮に帰って来たのである、と(70頁)。
そのうえで、この詩の形式を復元してみせます ―― 形式からは詩篇中に珍らしいもので、人々が二隊に分かれ、一隊は契約の櫃をかついでシオンの坂を登って来る者、他の一隊はシオンの門内で待ち受ける者とで、交り代りに一部づつ唱ひ、時々二隊が一声となって合唱する、と(71頁)。
だから青木先生の訳文には、詩篇の他の篇には見られない指示が書き込まれています。「全隊の合唱が」「門の内から一人の声が」「門外の隊は之に答へて合唱」「内外全隊の合唱が起る」。第8節と第10節は、問いと答えを別の隊に振り分けるためにAとBへ割られました。
注解を通して読む
第1節 地は主のもの ―― 青木先生がラビを引く
「地と其れに充てるものは皆ヤーウエのものなり」。青木先生はここに二つのことを見ます ―― ダビデが歌ったのは異邦人の国々を征服して、神の観念が世界的に広くなったのである。と同時に昔の有名なラビが言ったように、食事する時にも此句を思い合せてヤーウエに感謝せずには居られぬ筈である、と(72頁)。
この「昔の有名なラビ」は、タルムードの議論そのものです。祝福を唱えずに味わう者は聖なるものを盗んでいる ―― この節を根拠に、食前の祝福が導かれました(ベラホート35a)。地の全部が主のものなら、口に入れる一切れも主のものだからです。
ラシーは同じ節を、まったく別の方向へ絞ります ―― 「地」はイスラエルの地であり、「世界」はその他の国々である、と。次の節の「海」と「川」についても、七つの海がイスラエルの地を囲み、四つの川がある、ヨルダン、ヤルムーク、カルミヨン、ピガーだ、と地図を描きました。
広げる読みと、絞る読み。向きは逆ですが、地の全部が誰のものかという問いは同じ一つです。
第4節 「その霊魂」か「わが魂」か
青木先生の訳は「その霊魂、虚栄に振むかぬ者/いつはりて誓をせざる者」。虚栄に向かわないのは、登ろうとする人の魂です。
ラシーは逆に取ります ―― これは「わが名を空しく取らなかった者」であり、私の名と私の魂にかけて空しく誓わなかった者のことだ、と。神が御自身にかけて誓われるという聖書の言い回しを引いて、ここの「ナフシー」を神の側に置きました。
もとの子音の並びは一つです。それが、誰の魂かで割れました。門をくぐる資格を、人の内側で計るか、神の名の重さで計るか ―― 短い一語に、二つの読みが同時に立っています。
第7節 門が開かない
「門よ、汝らの頭を挙げよ/永遠の戸よ、あがれ」。青木先生はここに、行列が止まる瞬間を置きました ―― 茲で暫く音楽だけ奏せられ、それから契約の櫃がシオンの門に入らんとするとき、門外の隊は門前に立ち止って唱う、と(71頁)。
ラシーは、同じ場面を伝承で語ります ―― ソロモンの日々、契約の箱を至聖所に入れようとしたとき、門が互いに固く閉じてしまった。彼は二十四の賛歌を唱えたが答えられず、「あなたの油注がれた者の顔を退けないでください。あなたの僕ダビデの慈しみを覚えてください」(歴代誌下6章42節)と言うに至って、ようやく開いた、と。
第9節の「永遠の戸」にはこう付けます ―― その聖性が永遠である戸のことだ、と。
一方は詩の形式から、もう一方は言い伝えから来ました。それでも二人が第7節に見たものは同じです。行列は門の前で止まっている。まだ入れていない。
第10節 勝った人の名が出てこない
青木先生は結びにこう書きました ―― ダビデは此の心を有っていたから、戦勝も自分の功と思わず「栄光の王、戦ひの英雄」はヤーウエであると歌っている。全く自己を忘れているのが床しい、と(72頁)。
凱旋の歌でありながら、勝った人の名がどこにも出てきません。出てくるのは、門と、王と、セラだけです。
今日の私たちへ ―― 祈りとして
この詩は、二つの隊が向かい合って歌います。片方は坂を登ってきた者、もう片方は門の内で待っていた者です。どちらも同じ王を迎えているのに、立っている場所が違う。だから問いと答えの形でしか歌えません。
「栄光の王とは誰ぞや」。この問いを発するのは、門の内側にいた人です。外から来た者が答えます ―― ヤーウエ、戦ひの英雄、と。待っていた側が問い、帰ってきた側が答える。この順序は、たぶん逆にはできません。
そして詩は、門が開いたところで終わります。入った後のことは書かれていません。書かれているのは、誰が登れるのかという条件と、門の前で交わされた問いだけです。
私たちが日曜ごとにこの詩を唱えるとしたら、それは入り終えた人の歌としてではなく、まだ門の前にいる者の歌としてでしょう。頭を挙げよ、と門に呼びかけるのは、開いていないからです。
今日のことば
詩篇 24:1
לְדָוִד מִזְמוֹר לַיהֹוָה הָאָרֶץ וּמְלוֹאָהּ תֵּבֵל וְיֹשְׁבֵי בָהּ
レダヴィド ミズモール、ラドナイ ハアーレツ ウメロアー、テヴェール ヴェヨシュヴェー ヴァー
ダビデの歌。地と、それに満ちるものは主のもの。世界と、そこに住む者たちも。
詩篇 24:7
שְׂאוּ שְׁעָרִים רָאשֵׁיכֶם וְהִנָּשְׂאוּ פִּתְחֵי עוֹלָם וְיָבוֹא מֶלֶךְ הַכָּבוֹד
セウー シェアリーム ラシェヘム、ヴェヒンナスウー ピトヘー オラーム、ヴェヤヴォー メレフ ハカヴォード
門よ、あなたがたの頭を挙げよ。とこしえの戸よ、上がれ。栄光の王が入られる。
詩篇 24:10
מִי הוּא זֶה מֶלֶךְ הַכָּבוֹד יְהֹוָה צְבָאוֹת הוּא מֶלֶךְ הַכָּבוֹד סֶלָה
ミー フー ゼー メレフ ハカヴォード、アドナイ ツェヴァオート、フー メレフ ハカヴォード セラ
この栄光の王とはだれか。万軍の主、この方こそ栄光の王。セラ
本シリーズ「詩篇を詠む」は、詩篇を一篇ずつ、三つの声を重ねて読み解きます。ユダヤ教の伝統的な注解(ラシー『詩篇注解』、ミドラッシュ・テヒリーム=ショヘル・トヴ、タルムード各所)、日本の聖書学者・青木澄十郎『詩篇の研究 ―― 詩篇の直訳と略解』(基督教文書伝道会、1959年)、そして「いつ、どのように詠まれてきたか」という祈り・典礼の視点です。本文中のページ番号は同書によります。ヘブライ語のカタカナ音写は朗読の目安です。



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