「私は孤独で、苦しんでいます」と訴えた詩が、最後の一行で「イスラエルを贖ってください」と結ばれます。ひとりの祈りは、どこで民の祈りに変わるのでしょうか。青木先生はこれを不完全ないろは歌と呼び、ラシーはその「ひとり」が何を指すのかを説きました。
いつ詠まれるか
セファルディムやハシディームの祈祷書では、平日の朝夕の祈りの終わりに置かれるタハヌン ―― 腕に顔を伏せて唱える悔い改めの祈り ―― で、この篇の全体が唱えられます。ヘブライ語のアルファベット順に句を並べた詩を、詫びの祈りに据える。言葉を端から端まで尽くすという形そのものが、願いの一部になっています。
月三十日の詩篇通読では第4日(23〜28篇)です。
背景と作者
青木先生は、この詩の骨格をひとことで示しました ―― 此詩は不完全ながらイロハ歌である、と(74頁)。作者については潔く手を引きます ―― 頭書に「ダビデの歌」とあるが一切わからぬ。ダビデであるとすればアブサロム事件の時の作だろう、と。
訳文についても自分で断り書きを入れています ―― 大体直訳に近くしたのであるが、文章は味が悪くなった、と(74頁)。青木先生のこういう正直さが、この本を読み物にしています。
注解を通して読む
第2節・第3節 「愧ぢしめられ」という語
青木先生はまず訳語の話から入ります ―― 本篇には「愧ぢしめられ」の語が度々用いてある。「耻かしめられ」とは少しちがう。侮辱されるのではなく自分の耻づべき点が暴露するのである、と(74頁)。そして、日本の武士が耻辱を最大の耻づ可きことと考えたのと同じであろう、今日のように厚顔無耻の時代ではなかったのである、と時代を並べました。
「信を失ふ者」を「背信する者」と改めたことにも註を付けます ―― 原語の意味は信義に背くという意味の外に神に対して信仰を失うことも含まれている。「信仰を棄てる者」と訳しても無理とは言えない、と。
ラシーは、この語をまったく外向きに読みます ―― 空しく裏切る者とは、強奪する者、力ずくで奪う者のことだ。貧しい人を財産から空にしてしまう者たちである、と。
内側で信を失うことと、他人の手から物を奪うこと。二人が並べたものは違います。それでもこの詩がそれを「恥」の語で呼ぶ以上、どちらも同じ結末に向かいます ―― 隠していたものが、露わになる。
第8節 善であり、直である
「ヤーウエは善にして直し、此の故に罪人を道に指示し」。青木先生は原語に目を留めます ―― 七節八節十節等に「善」が出てくる。原語のトーブは凡ての善を指す、殊に「めぐみ」とある。愛とか寛容とかが中心である、と(74頁)。
ラシーは文脈から同じところへ行きます ―― 主は善にして正しい。被造物を義とすることを望まれるからである。それゆえ罪人を道に導く ―― 悔い改めの道に、と。
語源から入った人と、次の句から入った人が、同じ結論に立ちました。ここでの「善」は、正しさの側にいる者を褒める言葉ではなく、罪人のほうへ向かう言葉である、と。
ラシーはさらに、もう一つの読みを並べます ―― 「罪人を道に導く」の罪人とは人を殺した者のことで、これは逃れの町への道である。分かれ道ごとに「逃れの町」「逃れの町」と標識が書かれていた、と(マコット10b)。悔い改めの道が、そのまま実際の街道の話になります。
第14節 「秘密」か「親交」か
青木先生の訳は「ヤーウエの親交は彼を畏るる者と偕にあり」。ただし、こう断っています ―― 「ヤーウエの秘密」と訳するのが本当であるが、互に秘密を語り合うほどの親しい交も指す、と(74頁)。
原語はソード。内輪の評議、打ち明け話の輪、という語です。畏れる者に主が明かすのは知識ではなく、その輪の中に入れることでした。
同じ頁で、ヘセッドについてもこう書いています ―― 「恩寵」の原語ヘセッドは新約のカリス(恩恵)に相当する、と。愛腸の原語は「柔かいはらわた」だとも。訳語を選びながら、そのつど元の手ざわりを残そうとしています。
第16節 「ひとり」の意味
「我に向き直り、我を憐みたまへ/そは我は孤独にして且つ苦めり」。
ラシーはこの孤独を、思いがけない向きに開きます ―― 多くの者の咎が私にかかっており、それに対して私はひとりなのだ。だから私に向き直り、憐れんでください。私の祈りは、全イスラエルの救いに必要なのだから、と。
ひとりであることが、孤立ではなく代表として読まれています。
続く第17節について、青木先生は読みが二つ立つと書きました ―― 「苦難は我が心に拡がる」は或は反対で、「苦難より我を広くなし給へ」と云う意味かも知れぬ、と(74頁)。狭められていると訴えているのか、広げてくださいと願っているのか。祈っている当人にも、たぶん決められません。
今日の私たちへ ―― 祈りとして
この詩は最後の一行で、話し手が入れ替わったように見えます ―― 神よ、凡ての苦難よりイスラエルを贖ひたまへ。ずっと「私」だった詩が、「イスラエル」で終わるのです。
けれどラシーは、第16節ですでに橋を架けていました。ひとりで祈っているこの人は、はじめから民の側に立っていた、と。「私を憐れんでください」と「イスラエルを贖ってください」は、この読みでは同じ一つの願いです。
青木先生は、第21節「完全と正直と我を護るべし」についてこう書きます ―― ダビデが完全無欠だと自慢したのではない。良心に照して恥ぢなかったのである、と(74頁)。
そしてこの詩は、いろは歌でありながら不完全です。文字を端から端まで並べると決めておきながら、途中の文字が抜けています。全部そろえて差し出すつもりで書き始め、そろわないまま終えている ―― 若きときの罪を覚えないでくださいと願う祈りに、これ以上ふさわしい形はない気がします。
今日のことば
詩篇 25:1
לְדָוִד אֵלֶיךָ יְהֹוָה נַפְשִׁי אֶשָּׂא
レダヴィド、エレーハ アドナイ ナフシー エッサー
ダビデの歌。主よ、あなたに向かって私は魂を上げます。
詩篇 25:4
דְּרָכֶיךָ יְהֹוָה הוֹדִיעֵנִי אֹרְחוֹתֶיךָ לַמְּדֵנִי
デラヘーハ アドナイ ホディエーニ、オルホテーハ ラムメデーニ
主よ、あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。
詩篇 25:14
סוֹד יְהֹוָה לִירֵאָיו וּבְרִיתוֹ לְהוֹדִיעָם
ソード アドナイ リーレアーヴ、ウヴリトー レホディアーム
主の親しき交わりは主を畏れる者たちと共にあり、主はその契約を彼らに知らせてくださいます。
本シリーズ「詩篇を詠む」は、詩篇を一篇ずつ、三つの声を重ねて読み解きます。ユダヤ教の伝統的な注解(ラシー『詩篇注解』、ミドラッシュ・テヒリーム=ショヘル・トヴ、タルムード各所)、日本の聖書学者・青木澄十郎『詩篇の研究 ―― 詩篇の直訳と略解』(基督教文書伝道会、1959年)、そして「いつ、どのように詠まれてきたか」という祈り・典礼の視点です。本文中のページ番号は同書によります。ヘブライ語のカタカナ音写は朗読の目安です。



コメント