詩篇3篇 私は伏して眠り、また目覚めた ―― 追われた者の朝の歌

詩篇 by 929

これは、追い詰められた人の朝の歌です。表題に「ダビデがその子アブサロムを逃れたときの歌」とある通り、我が子の反逆に王位も命も追われたダビデが、荒野の夜を越えて目を覚ました ―― その朝の感謝がこの詩です。

いつ詠まれるか

青木先生は、この詩を「朝の詩」と呼びます(10〜11頁)。ダビデがマハナイムの野営で無事に一夜を過ごし、目覚めたときの感謝だから、と。もしアヒトフェルの献策どおり、その夜のうちに一万二千の兵が夜襲していれば、ダビデの首はなかった(サムエル記下17章)。だから朝の感謝は大きかった。先生は、次の4篇が「夕の詩」であることと対にして、3篇がダビデ詩集の巻頭に置かれた理由を、これが朝の詩だからだと説明します。

ユダヤの伝統でも、「私は伏して眠り、また目覚めた」(6節)は、夜ごと自分を神に委ねて眠り、朝ごとに生かされて目を覚ます ―― その往復を言い表す一句として親しまれてきました。夜の委ねと朝の感謝、その両方を、この詩は祈りにします。

セラという記号

3篇には、詩篇で最初の「セラ」が現れます。青木先生の説明を借りましょう。セラは詩篇全体に七十一回あり、詩人自身が書いたのではなく、神殿の讃歌として用いる際に付された記号で、意味は今では不明。音楽の休止、折り返し、楽器だけの間奏、段落の切れ目など諸説あるが、先生は「中止」の意と見て、朗読のときは声に出さないのがよい、とします(10頁)。歌の余白、と思えばよいでしょう。

注解を通して読む

青木先生は、ダビデの苦しみの質を鋭く突きます。彼を最も苦しめたのは敵の数ではなく、「神も彼を救わない」という嘲りだった、と。アブサロムの反逆の遠い原因には、かつてダビデがウリヤの妻を奪った出来事があり、その良心の疼きが敵の声に和して自分を責める。「多くの者が私のたましいに言う」―― その苦しみは、たましいの底まで刺し貫くものでした(11頁)。ゴリアテは一撃で倒せたが、アブサロムは「敵」ではない。我が子が仇となった。四方から責められるその感覚を、先生は「四面楚歌」と言い表します。

それでもダビデは、この短い詩の中で「主(ヤーウエ)」の名を六度も呼びます。青木先生は、これを神と親しく交わっていた人の証だと読みます(11頁)。「あなたは私を守る盾」―― 盾とは軍人らしい語で、この状況にふさわしい。そしてダビデは、その盾を「私の栄光」と呼ぶ。昨日までの王位も家臣も塵に等しく、主おひとりが真の栄光だ、と。「主よ、立ち上がってください」という叫びは、イスラエルの軍が進むときのモーセの合図(民数記10章35節)の言葉。ダビデはそれを祈りに用いて、自らを奮い立たせました。

今日の私たちへ ―― 祈りとして

勝利の確信に至ったダビデが、敵軍を見わたすと ―― その頭(かしら)は我が子であり、兵は我が民でした。だから最後の祈りはこうなります。「救いは主にあります。あなたの祝福が、あなたの民の上にありますように」。追う者の上にさえ祝福を願う ―― ここにこの詩の深さがあります。朝、目覚めるたびにこの詩を詠むなら、それは「今日も生かされた」という感謝と、自分を苦しめる者の上にさえ祝福を願う祈りになるのです。


今日のことば

詩篇 3:6(口語訳3:5)

אֲנִי שָׁכַבְתִּי וָאִישָׁנָה הֱקִיצוֹתִי כִּי יְהוָה יִסְמְכֵנִי

アニー シャハヴティー ヴァイシャーナー、ヘキーツォーティー キー アドナイ イィスメヘーニー

私は伏して眠り、また目覚めた。主が私を支えてくださるから。

詩篇 3:9(口語訳3:8)

לַיהוָה הַיְשׁוּעָה עַל־עַמְּךָ בִרְכָתֶךָ סֶּלָה

ラアドナイ ハイシュアー、アル・アムハー ヴィルハテハー セラ

救いは主にあります。あなたの祝福が、あなたの民の上にありますように。セラ


本シリーズ「詩篇を詠む」は、詩篇を一篇ずつ、三つの声を重ねて読み解きます。ユダヤ教の伝統的な注解(ラシー『詩篇注解』、ミドラッシュ・テヒリーム=ショヘル・トヴ、タルムード各所)、日本の聖書学者・青木澄十郎『詩篇の研究 ―― 詩篇の直訳と略解』(基督教文書伝道会、1959年)、そして「いつ、どのように詠まれてきたか」という祈り・典礼の視点です。本文中のページ番号は同書によります。ヘブライ語のカタカナ音写は朗読の目安です。

▶ 詩篇ライブラリー(全150篇の目次)

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