「主よ、私の神よ、私はあなたに逃れます」。詩篇7篇は、自分の潔白を確信し、堂々と神の正義に訴える詩です。5篇・6篇が自分の罪におののいていたのに対し、この篇にはその怯えがありません。天下を敵に回しても、神さえ共におられれば何を恐れよう ―― 青木先生が「純真な青年にとって最も愉快な詩」と呼んだ一篇です。
いつ詠まれるか
固定した典礼の枠はありません。この詩の場所は、追い詰められてなお神の正義を信じて立つ、その一点にあります。
青木先生は、5篇・6篇と読み比べて、大きな違いを指摘します。前の二篇では、敵のほかに自分の罪をも恐れていた。だから神の正義に訴えるよりも、慈悲を乞う怯えがあった。ところが本篇には、それが無い ―― 天下を敵としてもヤーウェさえ共におられれば何を恐れよう、というダビデの面影が躍如としている、と(25頁)。青年将軍として、青年詩人としてのダビデが、ここにいます。
背景と作者
表題は「ダビデのシガヨン。ベニヤミンの人クシのことばについて、彼がヤーウェに歌ったもの」。この「シガヨン」を、青木先生は「礼讃歌」の意味だろうと見ます。七十人訳は単に「讃歌(プサルモス)」と訳しました(25頁)。
問題は「ベニヤミンの人クシ」です。この名は歴史に見当たりません。青木先生は、クシとはエチオピア人のことで個人の名ではなかろう、サウル王の迫害の頃の詩らしいので、サウルの部下だろうと推測します(25頁)。
ユダヤ伝統は、もっと踏み込みます。ラシーはミドラッシュを引いて、クシとはサウルその人だ、と言うのです ―― 「クシ人がその肌において際立っているように、サウルはその行いにおいて際立っていた」(タルムード・モエード・カタン16b)。クシを実在の人物ではなく、サウルを指す暗号と読む。青木先生が「個人の名ではなかろう」と見たのと、行き先は同じでした。二人とも、この表題の奥にサウルの迫害を見ています。
なおヘブライ語聖書は表題を1節と数えます。以下は口語訳と同じ番号を用います。
注解を通して読む
第3〜4節「もし私がこのことをしたのなら」
ダビデはここで、自分の潔白を並べます。「もし私がこのことをしたのなら ―― もし私の手に不正があるのなら ―― もし私と親しい者に悪を報いたのなら」。そして括弧のように差し込まれる一句 ―― 「かえって、ゆえなく私の敵であった者を、私は助け出したのだ」。
青木先生は、これをダビデがサウルの命を二度助けた出来事だと読みます(サムエル記上24章・26章、26頁)。洞窟で、また陣営で、ダビデはサウルを殺せた。しかし殺さなかった。ラシーもまったく同じ箇所を指します ―― 上着の裾を切ったのは、辱めるためでも憎しみからでもない。あなたを殺せる手の中にいたのに殺さなかった、とサウルに知らせるためだった、と。青年ダビデの潔白の中身は、敵を生かしたこと。ユダヤの注解も青木先生も、そこを見ています。
第6〜9節「起き上がってください、審きを命じてください」
「起き給へ、覚め給へ、立ち上り給へ」。ダビデは三つの動詞を重ねて、神が審きのために立ち上がるよう呼びます。青木先生は、ここでダビデが世界的な審判と自分の審判とを結びつけている点に注目します。全世界を正義で裁く神に、自分とサウルとのあいだを裁いてくださいと訴え、その実現は速やかだと信じている、と(27頁)。第9節「心と腎とを調べる方は正しい神」―― 神は人の心の奥まで見通す。サウルが讒言を信じても、神はダビデの心の潔白を知っている。
第10〜17節「悪は掘った穴に落ちる」
青木先生が、この篇でいちばん心を寄せるのは第9節の祈りの中身です。「悪しき者の悪を終わらせてください」―― これは「悪人を亡ぼしてください」ではない。願わくは邪悪な人も亡びずに、「邪悪」そのものだけが消滅してほしい、という祈りなのだ、と先生は読みます(28頁)。人を滅ぼすのではなく、悪を終わらせる。
そして悪の末路を、詩は自滅として描きます。「彼は穴を掘り、また之を穿ち、造りつつある落とし穴に落ちた」。「彼の害は彼の首(こうべ)にかえる」。悪は、その本質が自家滅亡である ―― 青木先生はそう指摘します(28頁)。最後は琴を鳴らして終わります。現訳「うたわん」を、青木先生は原語どおり「琴歌せん」と訳しました。非常に嬉しい心を示す結びだ、と(28頁)。
今日の私たちへ ―― 祈りとして
5篇・6篇が自分の罪におののいていたのに、7篇のダビデは怯えません。潔白を確信し、堂々と神の正義に訴える。ただし、その正義への訴えは、敵を滅ぼしてくれという叫びではありませんでした。願うのは「悪を終わらせてください」―― 人ではなく、悪そのものが消えること。ダビデがサウルを二度まで生かしたように、この詩は、敵をも滅ぼしたくないという願いの上に立っています。天下を敵にしても、神さえ共におられれば恐れない。この詩を声に出すとき、それは強がりではなく、自分の潔白を神の手にゆだね、悪そのものの終わりを願う祈りになります。
今日のことば
詩篇 7:2(口語7:1)
יְהֹוָה אֱלֹהַי בְּךָ חָסִיתִי הוֹשִׁיעֵנִי מִכׇּל־רֹדְפַי וְהַצִּילֵנִי
アドナイ エロハイ、ベハー ハスィーティー、ホーシーエーニー ミッコル・ロードファイ ヴェハツィーレーニー
主よ、私の神よ、私はあなたに逃れます。私を追う者すべてから、私を救い、助け出してください。
詩篇 7:9(口語7:8)
יְהֹוָה יָדִין עַמִּים שׇׁפְטֵנִי יְהֹוָה כְּצִדְקִי וּכְתֻמִּי עָלָי
アドナイ ヤディーン アンミーム、ショフテーニー アドナイ、ケツィドキー ウフトゥンミー アライ
主はもろもろの民を裁かれる。主よ、私の義と、私にある全きとにしたがって、私を裁いてください。
詩篇 7:18(口語7:17)
אוֹדֶה יְהֹוָה כְּצִדְקוֹ וַאֲזַמְּרָה שֵׁם־יְהֹוָה עֶלְיוֹן
オーデ アドナイ ケツィドコー、ヴァアザンメラー シェム・アドナイ エルヨーン
私は主の義にしたがって主に感謝し、いと高き主の名をほめ歌います。
本シリーズ「詩篇を詠む」は、詩篇を一篇ずつ、三つの声を重ねて読み解きます。ユダヤ教の伝統的な注解(ラシー『詩篇注解』、ミドラッシュ・テヒリーム=ショヘル・トヴ、タルムード各所)、日本の聖書学者・青木澄十郎『詩篇の研究 ―― 詩篇の直訳と略解』(基督教文書伝道会、1959年)、そして「いつ、どのように詠まれてきたか」という祈り・典礼の視点です。本文中のページ番号は同書によります。ヘブライ語のカタカナ音写は朗読の目安です。



コメント