今週の聖書(パラシャット・シャブア)
4月25日(日)〜5月1日(土)
アハレイ・モット
レビ記16章1節〜18章30節
ケドシーム
レビ記19章1節〜20章27節
※今週は2カ所、アハレイ・モットとケドシームを読みます。
パラシャット・アハレイ・モットのアハレイ・モットは死後の意味で、10章でアロンの子ナダブとアビフが聖火の代りに異火を主の前に捧げたために焼き滅ぼされて死んだ後のことを指しています。
彼らの死後、16章で主がモーセに言われたのは、アロンが年に一度、雄牛、雄羊を自分と家族のために罪祭と燔祭として、またイスラエルの会衆のためには、二頭の雄山羊、雄羊を罪祭と燔祭として、それぞれ聖所、会見の幕屋、祭壇で捧げなければならないということでした。
この伝統は現在でも年に一度の大贖罪日(ヨム・キプール)として行われています。
二頭の雄山羊のうち一頭は主ために罪祭として捧げられ、もう一頭はイスラエルの民の罪を負わせて荒野に送り出すアザゼルの山羊と呼ばれます(10節)。
これは年に一度、聖なる神の前にアロンもイスラエルの民も諸々の罪を贖われなければ立てないことを示し、これは永久に守らなければならない(34節)。
その為には罪祭の雄牛や山羊の血を薫香と共に贖罪所に注がなければなりませんでした(14節)。
血を注ぐとは罪を贖うことを意味します。
17章11節に「肉の命は血にあり、血は命であるゆえに贖うことができるからである」とあります。
原文ではダム(血)イカペル(贖う)べネフェシ(魂において)です。一方4節に「血を流した者(シャファフ)は民から断たれる」と書かれています。
10節にも「血を食べるものは、民から断たれる」とあります。これは何を意味するのでしょうか。
これは、生命は生命によってしか贖われないことです。人を殺して血を流した場合は、自分の血を代わりに注いで贖わなければならないことを意味します。
自分の血の代りに、アロンや祭司達が、罪祭や燔祭の家畜の血をもって罪を贖ったことを16、17章で述べています。生命が血によって贖われることの意味するもの、その重大さにおののきます。
18章ではエジプトやカナンの習慣を見習ってはいけないとして、近親相姦の禁止を述べています。
7節の「肉親に近づいてこれを犯してはならない」とありますが、原文は「レガロット エルヴァ」で「裸を見ない」の意味です。視覚から来るものが、罪を犯させるものであると考えられます。
これらのおきてを守るのは、これらの主のおきてによって生きるためであると5節にあります。
現実生活をいかに聖なる神と共に清く生きるか、その秘訣が具体的に述べられています。
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