ベハル スィナイ レビ記25章1節〜26章2節

レビ記

今週の聖書(パラシャット・シャブア)
5月9日(日)〜5月15日(土)
「ベハル スィナイ」
レビ記25章1節〜26章2節

 パラシャット・べハルのベハルはレビ記25章1節「主はシナイ山で」の「山で」の意味です。
23章で時間の聖別を神はモーセに言われましたが、ここでは空間、土地について述べられています。
 それは「私が与えるハアレツ(地、国)」で、現在のイスラエルの国土を指します。
神が与える地は、六年間耕作し、七年目は、工作をやめ休耕の安息年であると記されています(5節)。
 さらに安息の年の七倍の年、49年後の50年目は、ヨベルの年で、ラッパを吹き鳴らして聖なる年として、国中の住民の負債が免除され、自由になって、それぞれが所有の土地に帰れます(10節)。
 23節にも、地は永代に売ってはならない。地は私のものだからであるとあります。

 このような土地だからこそ、神はイスラエルの兄弟が落ちぶれて土地を売った時は、近親者が買い戻さなければならないとか、富むようになったときは、自分で買い戻さなければならないと書かれています(25-26節)。
 
 特に兄弟が落ちぶれた時、利子をとってはいけない、身を売った場合は奴隷のように働かせてはならない、ヨベルの年には兄弟は元の所有の地に帰ることができる。
 落ちぶれて寄留者や旅人に身を売った場合は、その兄弟の一人か、叔父か、叔父の子、本人が富むようになったときは、本人がヨベルの年まで数えて身代金を払って贖われる。
 それでも贖われられない時は、ヨベルの年には自由になれる。それは、イスラエルの人々は私のしもべ(エベット)であり、私はイスラエルの人々をエジプトから導き出した彼らの神、主であるからであるとあります(47-55節)。
 イスラエルの民は、神が贖った民であるから、同じ民である兄弟はお互いを冷たくあしらってはならないというイスラエルの神と民と特別な関係があります。
 エベットは、奴隷の意味であるとともに主に仕える者、主人の所有物とも言えるので、イスラエルの民は神に仕える民であり、その国は神のものなのです。

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