ベフコタイ レビ記26章3節〜27章34節 

レビ記

 パラシャット・ベフコタイのベフコタイはレビ記26章3節の「私の定めに」を意味しています。レビ記のパラシャーもこれで最後になりますが、このパラシャ―も、主がシナイ山でモーセとイスラエルの人々に語られた定めとおきてと律法であると26章46節に明記されています。

 その内容は神の祝福(3-13節と神の呪い(14-39節)です。神の定めに歩み、戒めを守り、それを行うならば祝福が与えられ、そうでなければ、呪われるというものです。敵という言葉が多数あり敵対するような状況を想定して語られていて、39節には敵の地で自分の罪と先祖たちの罪のためにやせ衰えるとあります。しかし、もし自分の罪と先祖たちの罪を告白するなら、私はヤコブ、イサク、アブラハムの契約を思い出す。さらに、たとえおきてを軽んじ、定めを忌み嫌っても、私は彼らを忌み嫌わず、彼らを滅ぼさず、契約を破ることはない。イスラエルの人々の神となるためにエジプトから導き出した主であるからであると書かれています(41、45節)。何という神の愛の言葉でしょう。

 27章では、この愛に応じるためには、やはりイスラエルの人々も神に何か捧げたいと思い、捧げる場合のおきてが書かれています。誓願を立てる場合、家畜、、畑の一部、奉納物を捧げる場合、また主のものであるのは、家畜のういご、地の十分の一から産出するもの、牛または羊の十分の一。9節に「主に捧げるものはすべて聖なる物となる」とあり、ここにも「私は聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない」(11章45節)を実践していこうとする態度が見られます。ちなみに捧げるのヘブライ語は、9節の「ヤクリーブー(近づける)」のほかに16節では「ヤクディ-シ(聖なるものとする)」の意味があり、捧げる行為自体がすでに聖なるものであるとの意味があります。

 これでレビ記は終了しますが、祭司のおきてについて書かれたものがレビ記ですが、実は祭司ばかりではなくイスラエル自身が主に捧げられた民であることが強く思わされます。エレミヤ記2章2-3節「私はあなたの若い時の純情、花嫁の時の愛、荒野なる、種まかぬ地で私に従ったことを覚えている。イスラエルは主のために聖別されたもの、その刈り入れの初穂である」で終わりたいと思います。

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