【箇所】 テサロニケの信徒への手紙 二 2章1〜2節
【使徒行伝での背景】
第一の手紙を送ったあと、テサロニケ教会では「主の日(世の終わり・キリストの再臨)はもう来てしまった」という言葉が広まり、人々が動揺していた。パウロはコリント滞在中(使徒18章の時期)、続けてこの第二の手紙を書く。木下順治は、この第二の手紙を、大部分シラスに口述筆記させたものとみて、「第一の手紙よりも、エルサレム教会に多い『終末』の考え方を、より濃く映している」と述べる(Ⅱテサ1:7〜10、2:3〜10)。迫害と終末の噂の中で揺れる若い群れへの、火急の手紙である。
【その時のパウロの様子・思い】
パウロは焦る群れを、まず落ち着かせようとしている。終末を語りながら、その口調は煽るのではなく、「あわてるな、動かされるな」と地面に足をつけさせる方向に働いている。希望を語る人が、同時にブレーキ役でもある。
【登場する協力者】
- シラス(シルワノ)──木下によれば、この第二の手紙はとくにシラスの色が濃い。終末への強い待望は、エルサレム教会に近い彼の信仰を映しているという。
- テモテ──第一・第二いずれも共同差出人(Ⅱテサ1:1)。
【本文】(口語訳)
さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの来臨と、わたしたちが主のみもとに集められることについて、あなたがたにお願いすることがある。霊によるとか、言葉によるとか、わたしたちから出たという手紙によるとかして、主の日が既に来たかのように言う者があっても、すぐに心を動かされたり、あわてたりしてはいけない。(Ⅱテサ2:1〜2)
【木下の視点】
木下は、テサロニケの二つの手紙に流れる強い終末待望を、パウロだけの発想ではなく、シラスを通してエルサレム教会の信仰が入り込んだものと見る。だが同時に、その終末は「主のみもとに集められる」希望として語られている(Ⅱテサ2:1)。つまり終わりの日は、恐怖の予告ではなく、離ればなれの者が主のもとで一つに集められる約束だ。だからこそパウロは、「もう来てしまった」という噂に振り回されるな、と言える。希望が確かなら、日付に振り回されなくてよい。
【私の問い】
終末や「その日」を語る宗教は、たいてい人を煽り、不安にさせる。パウロもその手の人ではないのか。
【私の受け取り】
逆だった。ここでパウロがしているのは、煽ることではなく鎮めることだ。「主の日が来た」と騒ぐ声に、彼は「あわてるな」と応じる。終末を、恐怖のカウントダウンではなく、「必ず主のもとに集められる」という着地点として示す。着地が約束されているから、途中で揺さぶられても倒れなくてよい——そういう落ち着きの与え方だ。断定的で人を追い詰めると思っていたパウロが、ここでは動揺する群れの肩に手を置いて、地に足をつけさせている。
【福音書との接点】
「その日、その時は、だれも知らない」「あわてるな」(マルコ13:32〜37)と語ったイエスと、パウロの姿勢は重なる。終わりを知っている者ほど、今日を静かに生きられる。
【パウロから、今日の私への手紙】
※以下は学術的な訳ではなく、私自身の受け取り直し(意訳)です。
今日の私へ。
「もう手遅れだ」「間に合わない」という声に、心を奪われていないか。私はあなたに、終わりを恐れさせたいのではない。伝えたいのは着地点だ——あなたは最後に、必ず主のもとへ集められる。行き先が決まっているなら、途中の揺れで倒れなくていい。噂と焦りに振り回されず、今日の一歩を、落ち着いて踏みなさい。
【今日への一行】
希望は、焦らせるためではなく、立たせるためにある。あわてなくていい。
底本:木下順治『パウロ——回心の伝道者』(筑摩書房、1986年)VI・VII テサロニケ/コリントの記述より。聖書引用は口語訳。※テサロニケ二の著者性には学問上の議論があるが、木下はパウロのもの(シラスへの口述)として扱っており、本ノートもその読みに沿う。


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