テサロニケの信徒への手紙 二 ── 働こうとしない者は、食べるな(読解ノート02)

【箇所】 テサロニケの信徒への手紙 二 3章10〜13節

【使徒行伝での背景】
「主の日はもう来た」という噂(前のノート=Ⅱテサ2:1〜2参照)は、思わぬ副作用を生んでいた。終わりが近いのだからと、仕事をやめてしまう人々が現れたのだ。働かず、他人のパンを当てにして、ただ落ち着きなく動きまわる。この手紙の締めくくりで、パウロはその現実に、きわめて具体的に釘を刺す。コリントから、テサロニケの群れへ。

【その時のパウロの様子・思い】
これはパウロが説教できる立場にあった。第一の手紙で彼はこう書いていた——「あなたがたのだれにも負担をかけまいと、夜昼はたらきながら、福音を宣べ伝えた」(Ⅰテサ2:9)。木下順治も、パウロのテサロニケ伝道を「乏しい生活をしながら、天幕造りの職人として自活した労苦の伝道」と描く(Ⅱテサ3:7〜8)。自分が手を動かして食べてきた人だから、「働け」と言う資格があった。

【登場する協力者】

  • シラス・テモテ──パウロと共に、テサロニケで実際に働きながら伝道した同労者。「働く模範」を身をもって示した仲間たち(Ⅱテサ3:7〜9)。

【本文】(口語訳)

また、あなたがたと一緒にいた時に、「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」と命じておいた。ところが、聞くところによると、あなたがたのうちのある者は、怠惰な生活を送り、少しも働かないで、ただいたずらに動きまわっているとのことである。こうした人々に対しては、静かに働いて自分で得たパンを食べるように、主イエス・キリストによって命じ、また勧める。兄弟たちよ。あなたがたは、たゆまずに良い働きをしなさい。(Ⅱテサ3:10〜13)

【木下の視点】
木下は、パウロの信仰が決して地に足を離れた熱狂ではなかったことを繰り返し描く。彼は天幕を織り、自分の欠乏をピリピからの助けで補いながら(ピリ4:16)、日々の労働の中で福音を伝えた。終末を最も強く待ち望んだ手紙が、同時に「静かに働いてパンを食べよ」と命じている——ここに木下の見るパウロの健全さがある。天を待つことと、今日を地道に生きることは、彼の中で少しも矛盾しない。

【私の問い】
「働かない者は食べるな」は、弱者を切り捨てる冷たい言葉ではないのか。

【私の受け取り】
文脈を見れば、切り捨てではないと分かる。これは働けない人へのものではなく、「終わりが近い」を口実に、働けるのに働くのをやめた人への言葉だ。パウロが戒めているのは、信仰を理由に日常を放り出すこと。彼は逆に、「静かに働いて、自分のパンを食べなさい」と、平凡な毎日へ連れ戻す。断定的で厳しいと思っていたパウロが、ここでは「特別なことをしなくていい、目の前の仕事を淡々とやりなさい」と、地に足をつけさせている。この現実感は、正直、信頼できる。

【福音書との接点】
「あすのことを思いわずらうな。一日の苦労は、一日で足りる」(マタイ6:34)と語ったイエスと同じで、信仰は今日一日を丁寧に生きることに宿る。大げさな終末論より、目の前のパンと仕事。

【パウロから、今日の私への手紙】
※以下は学術的な訳ではなく、私自身の受け取り直し(意訳)です。

今日の私へ。
信仰とは、日常から飛び立つことではない。私は天を待ちながら、毎日、手を動かして天幕を織った。あなたも、大きな意味や特別な使命を探して足を止める前に、今日の仕事を静かに果たしなさい。目の前のパンを、自分の手で得ること。それ自体が、地に足のついた信仰だ。派手さはないが、そこにこそ本物がある。

【今日への一行】
天を待つ人ほど、今日を地道に働く。信仰は、目の前のパンと仕事に宿る。

底本:木下順治『パウロ——回心の伝道者』(筑摩書房、1986年)VI・VII テサロニケ/コリントの記述、Ⅱテサ3:7〜8の自活伝道の描写に依拠。聖書引用は口語訳。

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