ガラテヤの信徒への手紙 ── 律法の行いによるのではなく(読解ノート02)

【箇所】 ガラテヤの信徒への手紙 2章16節

【使徒行伝での背景】
エルサレムでの使徒会議(使徒15章)で、異邦人の信徒に割礼を課さないことが確認された。その象徴が、パウロが連れていったギリシャ人テトスが割礼を強いられなかったこと(ガラ2:1〜3)。だが実際の教会では、なお「割礼と律法を守ってこそ一人前の信徒だ」という圧力が消えなかった。ガラテヤ書2章は、その論争のただ中で、「人は何によって神の前に義(正しい者)とされるのか」という一点に切り込む。

【その時のパウロの様子・思い】
これはパウロ自身が身をもって通り抜けた問いだった。かつて彼は、誰よりも熱心な律法の徒として「行い」で神に認められようとした人である。その道の果てに、彼は復活のキリストに出会って砕かれた。だからこの一句は、頭で作った理屈ではなく、自分の生き方が根こそぎ引っくり返された経験から出ている。

【登場する協力者】

  • テトス──割礼なしで受け入れられた「恵みの証人」。理屈より前に、彼の存在そのものが主張だった。
  • バルナバ──この時期パウロと共に異邦人伝道を担った同労者(後に決別するが、ここではまだ並んで立つ)。

【本文】(口語訳)

人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。(ガラ2:16)

【木下の視点】
木下はここで、原語(ピスティス)の訳に注意を促す。口語訳の「キリストを信じる信仰」を、木下は「キリストの真実」とも訳せると記す。つまり、義とされる土台は「私がどれだけ強く信じるか」という私の側の力ではなく、「キリストがその十字架の死を通して示した真実」——神の側の働きだ、というのだ。木下は繰り返す。義は「自分の努力、人の理解力で神から受けとるものではなく、神の力によって神から与えられるもの」(Ⅰコリ1:18, 30、2:5)。信仰とは、力むことではなく、受け取る姿勢のことだと。

【私の問い】
「信仰によって義とされる」は分かる。では、努力は無意味なのか。私は何もしなくていいのか。

【私の受け取り】
「努力するな」ではなく、「義(=神に受け入れられること)は、成果報酬ではない」ということだと受け取った。私は無意識に、良い行いや正しさを積み立てて、それで自分の値打ちを証明しようとする。パウロが「律法の行い」と呼ぶのは、まさにその生き方だ。彼はそれを否定して、こう言っている——あなたの値打ちは、あなたが稼ぐものではなく、すでに与えられている、と。断定的で近寄りがたいと思っていたパウロが、ここでは「もう自分を証明しなくていい」と重荷を降ろさせる人として立っている。これは、思っていたより優しい。

【福音書との接点】
宮で「神様、私は正しい者です」と数え上げた律法学者ではなく、ただ「憐れんでください」と胸を打った取税人のほうが義とされて帰った、というイエスのたとえ(ルカ18:9〜14)と、同じことを言っている。差し出す手柄ではなく、差し出された恵みを受け取る空の手。

【パウロから、今日の私への手紙】
※以下は学術的な訳ではなく、私自身の受け取り直し(意訳)です。

今日の私へ。
あなたは今日も、自分の値打ちを証明しようと、成績表を握りしめていないか。もっと立派に、もっと正しく——その努力が、いつのまにか「これができない自分はダメだ」という鎖になっていないか。義しさは、あなたが勝ち取る賞ではない。私も、誰より熱心に稼ごうとして、行き止まりで砕かれた。手柄の握りこぶしを開いて、ただ差し出されているものを受け取りなさい。それが信仰だ。

【今日への一行】
義は、稼ぐ賞ではなく、受け取る贈り物。握った手を、開いていい。

底本:木下順治『パウロ——回心の伝道者』(筑摩書房、1986年)VII コリントでの活動「ガラテヤ人への手紙」より。ガラ2:16の「キリストの真実(ピスティス)」の訳に依拠。聖書引用は口語訳。

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