【箇所】 ガラテヤの信徒への手紙 2章19〜20節
【使徒行伝での背景】
この手紙はコリント滞在中に書かれた(使徒18章の時期)。律法か信仰かをめぐる激しい論争の流れの中で、パウロは議論の頂点で、自分自身の内側を開いて見せる。木下順治は、「彼の神学の中核は、この手紙の中に集約されている」と記し、その中核をこの2章19〜20節に見る。論争の書が、ここでいちばん個人的な告白になる。
【その時のパウロの様子・思い】
木下は、パウロの信仰の出発点を鮮やかに描く。かつてパウロは、ゴルゴタで十字架にかけられたイエスを見上げ、ラビの学徒として罵りと嘲りの言葉を投げかけた。その時、イエスの口から「父よ、彼らをおゆるしください」(ルカ23:34)という赦しの祈りを聞いた——木下はそこにパウロの信仰の種を見る。やがてダマスコで復活のイエスに出会い、迫害者は一転して従う者になった。2章20節は、その全体が一句に凝縮したものだ。
【登場する協力者】
- ここは協力者の場面ではなく、パウロが一人でキリストの前に立つ告白。あえて言えば、この経験を後に書き留め、最後まで側にいたルカが、パウロの内面の証人だった。
【本文】(口語訳)
わたしは律法によって律法に対して死んだ。それは、神に生きるためである。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。わたしが今、肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。(ガラ2:19〜20)
【木下の視点】
木下はこの一句を、パウロの言葉のまま丁寧に開いていく。「わたしは、神に生きるために、(キリストの生きざまという新しい)律法によって、(従来のモーセの)律法に死んだ。(古い律法に従っていた)わたしはキリストと共に十字架につけられて死んだ。生きているのは、もはや(律法に従う古い)わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」。木下にとってこれは、律法を守る「古い自分」がキリストと共に一度死に、恵みに生きる「新しい自分」が始まった、という回心そのものの構造である。
【私の問い】
「もはや私が生きるのではない」とは、自分を消し、自分を殺せということなのか。
【私の受け取り】
自己否定ではない、と受け取った。これは、生きる中心が移ることだ。「私の正しさ・私の実績・私が主人公」という中心が一度死んで、「私を愛して命を捨てた方」がその場所に住むということ。私がずっと尊敬できなかったパウロの激しさ——その根が、ここにあった。彼は教義を発明して振りかざしていたのではない。自分が十字架で一度死んだという生々しい体験を、そのまま生きていた。だから譲れなかったし、だから命がけだった。ここまで来て、ようやく分かる。彼を近寄りがたくしていたものの正体は、傲慢ではなく、深すぎる本気だった。今はじめて、彼を敬えると思う。
【福音書との接点】
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マルコ8:34)。パウロの2章20節は、このイエスの言葉を、自分の身に起きたこととして語り直したものだ。イエスの招きと、パウロの告白は、同じ一つの死と生を指している。
【パウロから、今日の私への手紙】
※以下は学術的な訳ではなく、私自身の受け取り直し(意訳)です。
今日の私へ。
あなたが疲れているのは、たぶん「私が主人公でいなければ」と気を張り続けているからだ。私も、自分の正しさを主人公にして生きて、行き止まった。だから一度、その私を十字架のそばに置いてきた。すると不思議に、私は消えるどころか、はじめて本当に生きはじめた。あなたのために命を捨てた方が、あなたの中に住みたがっている。主人公の椅子を、その方に譲ってみなさい。楽になるのは、そこからだ。
【今日への一行】
「もはや私ではない」は、消えることではなく、中心を明け渡すこと。楽になるのは、そこから。
底本:木下順治『パウロ——回心の伝道者』(筑摩書房、1986年)VII コリントでの活動「ガラテヤ人への手紙」より。ガラ2:19〜20の木下訳・回心理解に依拠。聖書引用は口語訳。


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