── 並び順のひみつと、読む順番のすすめ
「パウロは難しい」。聖書を開いて、そう感じたことのある人は少なくないと思います。じつはその読みにくさの一因は、あなたの側ではなく、手紙の“並べ方”のほうにあります。からくりが分かると、ぐっと近づきやすくなります。
「難しい」のは、あなたのせいではない
新約聖書を開くと、福音書と使徒行伝のあと、まず長い「ローマ人への手紙」から、パウロの手紙が続いていきます。いきなり「義とされるとはどういうことか」という込み入った議論が始まって、面食らう。けれどもこれは、パウロがいちばん難しいところから語り始めたわけではありません。並び順の都合で、たまたま重くて難しい手紙が先頭に来ているだけなのです。
並び順のひみつ ──「おおむね長い順」に並んでいる
パウロの名で伝わる十三の手紙は、じつはとてもシンプルな原則で並んでいます。まず「教会にあてた手紙」と「個人にあてた手紙」の二つに分け、それぞれの中を、おおむね長い順(原文=ギリシャ語の長さ順)に並べる。基本は、これだけです。
| 教会あて(9通) | ローマ / コリント一 / コリント二 / ガラテヤ / エペソ / ピリピ / コロサイ / テサロニケ一 / テサロニケ二 |
|---|---|
| 個人あて(4通) | テモテ一 / テモテ二 / テトス / ピレモン |
(厳密には、小さな例外もあります。たとえばガラテヤ書はエペソ書よりわずかに短いのに、前に置かれています。ですから「完全に長さ順」ではなく「ほぼ長さ順」。細部にこだわらず、大枠を「長い順」でつかんでおけば十分です。)
※十三通のうち、エペソ・コロサイや牧会書簡(テモテ一・二、テトス)などは、パウロ自身が書いたものかどうか学問上の議論があります。ここでは、伝統的な並びに沿って、まとめて「パウロの手紙」と呼んでいます。
なぜ「長さ順」なのか
内容の大切さでも、書かれた順でもなく、“長さ”で並べる——現代の感覚だと不思議ですが、古代に文書をまとめるときには、これはごくふつうの方法でした。長いものから短いものへ順に並べるのは、実務的で分かりやすい。だからパウロの手紙も、神学的な重要度や執筆年代ではなく、長さで整理されて、今の順番になっているのです。
コラム:なぜヘブル書だけ、後ろにあるのか
ここで、鋭い疑問が浮かぶかもしれません。「ヘブル人への手紙もかなり長い。なのに、どうしてパウロの手紙のうしろにあるの?」
答えは、ヘブル書がパウロの十三通に数えられていないからです。この「長い順」のルールが効くのは、あくまでパウロの手紙の中だけ。ヘブル書は本文に差出人の名前がなく(無記名で)、古代から「これは本当にパウロが書いたのか?」と疑われてきました。今日の研究でも、パウロの作ではないとみるのが一般的です。
そのためヘブル書は、パウロの十三通(ローマ〜ピレモン)が終わったあと、公同書簡(ヤコブ・ペテロ・ヨハネ・ユダ)へ渡る“橋”の位置に置かれています。その場所を決めているのは長さではなく、「誰の手紙とされるか」というカテゴリーなのです。だから——長いのに、うしろにある、というわけです。(ちなみに木下順治は本書で、ヘブル書をパウロの周辺、とくにプリスキラの信仰と結びつけて論じています。)
だから、どこから読むか ── 読む順番のすすめ
もし通読でつまずいた経験があるなら、いちばん長くて重い「ローマ人への手紙」から始めるのを、一度やめてみてください。おすすめは二つあります。
ひとつは、短くて個人的な手紙から。たとえば「ピレモンへの手紙」や「ピリピ人への手紙」。短いぶん、生身のパウロの声がまっすぐ届きます。
もうひとつは、書かれた順(執筆年代順)に読むこと。パウロの手紙のうち最も早いのは「テサロニケ人への第一の手紙」。若い教会を案じる牧者としてのパウロから始まり、彼の思想が育っていく過程をたどれます。
この「パウロ書簡を詠む」では、後者——書かれた順——で読んでいきます。完成した体系としてではなく、旅の途中で、対立の渦中で、獄中で、状況に応えて書かれた「生身の手紙」として。
肩の力を抜いて
並び順のからくりが分かれば、パウロはもう「難しくて近寄れない人」ではありません。難しい手紙が先頭にあるだけで、彼自身が難しいわけではない。まずはそこから、肩の力を抜いて始めましょう。
参考:木下順治『パウロ——回心の伝道者』(筑摩書房、1986年)。


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