パウロ書簡を、これまで何度も読んできた。それでも、正直に言えば、彼の言葉は自分の中にほとんど入ってこない。長いあいだ、それは自分の勉強不足のせいだと思っていた。もっと背景を知れば、もっと丁寧に読めば、いつか響くのだろうと。けれど、どうやら理由はそこではなかった。私はパウロという人を、心から尊敬できていない。だから彼の言葉が、他人の演説のように通り過ぎていくのだ。
この連載を始めるにあたって、まずその違和感を、ごまかさずに書いておきたい。尊敬できないふりをして敬うより、尊敬できないところから始めるほうが、きっと遠くまで行ける。私がパウロに引っかかっているのは、たとえばこういうところだ。
- 言い方が断定的で、独善的に見える。「私は言う」と繰り返し、意見の合わない相手には呪いの言葉まで投げる(ガラテヤ書)。上から裁いているように感じてしまう。
- イエスに直接会っていない。地上のイエスと共に歩いた弟子たちがいるのに、会ったことのない彼の解釈が、なぜこれほど大きな重みを持つのか。
- もとは迫害者だった。ステファノの殺害に加担し、教会を追い回した過去がある。
- 女性や律法をめぐる言葉に、今の私は素直にうなずけない。
- とにかく激しい。怒り、皮肉、仲間との衝突。バルナバとも、ペテロとも、ぶつかり、袂を分かつ。
こうして並べると、我ながら手厳しい。けれど、この「引っかかり」こそが、これから読んでいくうえでの手がかりになる、と思っている。違和感は、正しく向き合えば、いちばん深い理解の入口になるからだ。ここで挙げた一つひとつが、この先の記事でどう変わっていくか——あるいは変わらないか——を、正直に見ていきたい。
心強いことが一つある。この連載の土台にする本、木下順治『パウロ——回心の伝道者』(筑摩書房)の著者は、日本基督教会の牧師でありながら、あとがきにこう記している。この本は「多年にわたり聖書に学び、パウロという偉大な人物を理解するために苦闘してきた、努力の集積である」と。信仰に生きた人でさえ、パウロを理解するのに一生かけて苦闘した。だとすれば、私が今つまずいているのは、失敗ではなく、正しい出発点なのだと思える。
進め方はこうする。いきなり手紙の中身に入らない。まず「人間パウロ」に会いにいく。生い立ち、弱さ、劣等感、旅の労苦、仲間との衝突と和解——聖人像ではなく、欠点ごと一人の人間として辿る(人物篇)。そのうえで、彼の手紙を、木下がそれを置いた「書かれたその瞬間」に沿って読んでいく(書簡篇)。
目指すのは、三つの段階だ。まず知る——彼が何者で、どんな状況にいたか。次に敬う——一人の人間の格闘に、尊敬が生まれるかを確かめる。最後に受け取る——では、そのパウロは今日の私に何を語りかけているのか。
最後まで読んで、それでもパウロを敬えないかもしれない。そうなっても、嘘はつかないでおく。ただ一つだけ願っているのは、この連載を終えるころには、彼の言葉を「他人の言葉」として読み飛ばすことは、もうなくなっているということだ。
尊敬できない、から始める。それが、パウロを自分のものにする最初の一歩になる。
連載の土台:木下順治『パウロ——回心の伝道者』(筑摩書房、1986年)。著者は劇作家の木下順二とは別人で、日本基督教会の牧師・神学者。



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