ダマスコの大回心 ── 一八〇度の転回(人物篇04)

前回(回心前のサウロ)で見たように、迫害者サウロの内側では、押し殺された疑いが格闘を続けていた。そのサウロが、キリスト者を捕らえるためにダマスコへ向かう道の途中で、決定的な瞬間を迎える。パウロの生涯の分岐点、ダマスコの大回心である。

【場面】ダマスコへの道

ところが、道を急いでダマスコの近くにきた時、突然、天からの光が彼をめぐり照した。彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と、呼びかける声を聞いた。そこで彼が「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねると、答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。……」(使徒9:3〜5)

サウロは地から起き上がって目を開いたが、何も見えなかった(使徒9:8)。三日のあいだ、彼の世界は闇になる。木下は、この「盲目」を、外の目が閉じて内の目が開くまでの、静まりの時間として読む。

【木下の視点】愛に圧倒された転回
木下がこの回心をどう描くかが、この本の核心だ。彼は言う——パウロは論理の上で屈服したのではない。議論に負けて考えを改めたのではない。そうではなく、「いかなる力をもってしても反抗しえない、ある大きな力で圧倒される思い」だった。その力とは、イエスが、自分を十字架につけた者を呪わず、かえってその赦しを神に祈った——あの言葉ににじむ「暖い力、あらがいえないの力」である。かつてステパノの死で聞いた、あの祈り。人間のレベルを超えた「高い愛」が、この時ついにサウロに響いた。木下は書く。「イエスの反対者、迫害者が、イエスを仰ぎ、イエスに服する者となった。まさに一八〇度の転回である」。そして決定的だったのは、こう気づいたこと——間違っていたのは、自分のほうだった。

【その後】アナニヤと、ほどけていく盲目
目の見えないまま町へ導かれたサウロを、ダマスコのキリスト者アナニヤが訪ね、手を置いた。すると目からうろこのようなものが落ち、彼はふたたび見えるようになる(使徒9:10〜19)。木下は、この回復を一瞬の奇跡というより、心の盲目が「少しずつとけていった」過程として描く。こうしてサウロには、イエスの心が少しずつわかってきた。それは、タルソの家庭にも、エルサレムの律法学者たちの中にも、これまで一度も見出したことのない、まったく新鮮なもの——「もっと次元の高い、深く広い」だった。かつて迫害した相手の胸にあったものを、彼は自分の胸で知りはじめる。

【私の受け取り】
回心を「劇的な奇跡」としてだけ聞くと、遠い話になる。だが木下の読み方だと、これは「自分が正しい」を手放した瞬間の物語だ。サウロを変えたのは、雷でも論破でもなく、赦しの愛だった。自分を殺そうとする相手を赦す——その理不尽なほどの愛に、彼は勝てなかった。尊敬できなかったパウロの激しさの根が、ここでほどける。彼は、暴力で握りしめていたものを、愛に手放させられた人だった。ここまで来て、彼を軽蔑する気持ちは、もうない。

【福音書との接点】
「わたしが命じるように、互に愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)。イエスの愛は、教えとしてではなく、迫害者を打ち倒すとしてパウロに届いた。ダマスコの光は、十字架の赦しの続きだった。

【今日への一行】
人を変えるのは、論破ではなく、赦しの愛。サウロは、勝てない愛に出会って向きを変えた。

底本:木下順治『パウロ——回心の伝道者』(筑摩書房、1986年)III エルサレム遊学「ダマスコの大回心」より。聖書引用は口語訳。

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