ダマスコで、迫害者サウロは一八〇度変わった(前回04)。けれど、ここで正直に立ち止まりたい。人は弱い。あんなに燃えていた心が、いつのまにか冷えていることがある。私自身、それを何度も味わってきた。だとすれば、パウロは一度の劇的な回心で、そのまま変わりきったのだろうか。——おそらく、そうではない。
【木下の視点】回心は「少しずつ」だった
木下順治は、ダマスコの回心を一瞬の完成としては描かない。三日間の盲目のあと、パウロの心の目は「少しずつとけていった」と書く。福音の骨格も、その後のタルソでの長い沈黙の時代に、じっくり練り上げられた。木下があとがきで自著を「パウロを理解するための苦闘の集積」と呼んだように、パウロの信仰そのものも、一点の出来事であると同時に、生涯かけた歩みだった。回心はゴールではなく、スタートだったのだ。
【パウロ自身の言葉】火は消えうる、だから燃やす
驚くのは、パウロ自身がそれを一番よく知っていたことだ。彼はこう書く。
わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではない。ただ、捕えようとして追い求めているのである。……目標を目ざして走り、賞を得ようと努めている。(ピリピ3:12〜14)
そして弟子テモテには——「神の賜物を、再び燃えたたせなさい」(Ⅱテモテ1:6)。教会には——「御霊を消してはいけない」(Ⅰテサ5:19)。火は、放っておけば消える。だから、くべ続けるのだ。彼は自分自身にも厳しかった。「わたしは自分のからだを打ちたたいて服従させる」(Ⅰコリント9:27)。それでいて悲観しない。「外なる人は滅びても、内なる人は日々新たにされていく」(Ⅱコリント4:16)。
【私の受け取り】
これは、私をひどく楽にする。完成していなくていい。燃え尽きても、また燃やし直せばいい。パウロほどの人でも「すでに捕えたのではない」と言い、日ごと自分を新しくしようとしていた。信仰は、一度の決心で完了する契約ではなく、火を絶やさないための毎日の手入れだった。冷えた自分を責める必要はない。冷えたら、また薪をくべる。それだけのことを、二千年前の彼も、くり返していた。近寄りがたいと思っていた人が、ここでいちばん身近になる。
【今日への一行】
火は消えうる。だから、燃やし続ける。冷えた自分を責めず、また薪をくべればいい。
底本:木下順治『パウロ——回心の伝道者』(筑摩書房、1986年)III〜IV章より。聖書引用は口語訳。次回(06)は、回心後すぐには走らなかった「沈黙の十年」。


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