回心した人は、その勢いのまま大伝道に飛び出していく——私たちはそう思いがちだ。だがパウロは違った。ダマスコで劇的に変えられたあと、彼はすぐには表舞台に立たなかった。
【聖書の証言】
彼自身が振り返る。「わたしはすぐに、血肉に相談もせず、……アラビヤに退き、それからまたダマスコに帰った。三年ののち、……エルサレムに上った」(ガラテヤ1:16〜18)。その後も、彼は故郷タルソへ帰り、長い年月を過ごす。使徒として世に出るまで、回心からおよそ十年余りの、目立たぬ時期があった。
【木下の視点】
木下順治は、この沈黙を空白とは見ない。むしろ、のちにパウロが人々に訴えることになる「福音」の骨格——その神学の構造は、このタルソでの沈潜の時代に練り上げられたとみる。回心という出来事を、彼は一人静かに、何年もかけて咀嚼し、自分の言葉にしていった。派手な活動の前に、長い根の張る時間があったのだ。
【私の受け取り】
これも一つの「工夫」だと思う。変えられた直後こそ、焦って走り出したくなる。だがパウロは、すぐに成果を求めず、深く沈黙し、根を張った。燃える心を長持ちさせたのは、この地味な下ごしらえの年月だったのではないか。変化のあとに必要なのは、加速ではなく、熟成。早く形にしたい時ほど、一度黙って根を張るほうが、遠くまで行ける。
【今日への一行】
変えられた直後こそ、走り出す前に、根を張る。沈黙もまた、信仰の工夫。
底本:木下順治『パウロ——回心の伝道者』(筑摩書房、1986年)IV 大回心後の沈潜より。聖書引用は口語訳。


コメント