ノアが600歳の時、雨が40日40夜、地に降りつづけました。
そしてその水は150日の間、地上にみなぎっていました。
それで水はしだいに地の上から引いて、百五十日の後には水が減り、 箱舟は七月十七日にアララテの山にとどまった。水はしだいに減って、十月になり、十月一日に山々の頂が現れた。
創世記8章3−5節
伝説では、このアララテ山は、トルコの東端にある標高約5,100mのアララト山を指し、その山頂に箱舟は流れついたと考えられています。
水がしだいに減り、箱舟がやっと山頂にとどまったというのですから、その雨量は5,000m以上の高さまで及んでいたことがわかります。地にある全てを滅ぼすためには、それぐらい必要だったのでしょう。
六百一歳の一月一日になって、地の上の水はかれた。ノアが箱舟のおおいを取り除いて見ると、土のおもては、かわいていた。 二月二十七日になって、地は全くかわいた。
創世記8章13−14節
水が引いて山々の頂が現れはじめてから3カ月が経った時、土の面が乾いていることをノアは知ります。しかしその時点はまだ箱舟から出ないで、約2カ月間も待ちました。
一体どうして?
・全く乾いていなかったから、躊躇したのでは。
・水が昔の状態まで引いただけで、まだ沼地のようだったから。
・足を踏み入れられる状態ではなかったのでは。
・「出ていいよ」という神様の声が、まだノアにかけられていなかったから!
などなど。
15節を読むと、「この時、神はノアに言われた、『あなたは妻と、子らと、子らの妻たちと共に箱舟を出なさい』」と記されています。
正しく、全き人であったノアは、神様のGoサインが出るのを待っていたのかもしれません。
ここで「言われた」と書かれている言葉を原文で見ると、וַיְדַבֵּר אֱלֹהִים אֶל־נֹחַ (神はノアに語った)となっています。これは、一方的に神様が言うという意味ではなく、対話であったり、相手に話しかけたりする時に使う単語です。
神様はノアと向き合うように語りかけられたのかもしれません。
主はその香ばしいかおりをかいで、心に言われた、「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない。」
創世記8章21節
「人の心の衝動は、幼い時から悪い」と訳すのがいいのでしょうか。
神様によって創造された人は、「悪」を知って生まれてきたわけではない。しかしその創造には、成長する過程において「悪」を知る可能性もある。人は常に誘惑の中で生きているということを、神様ご自身も理解されたのではないか、という意見がありました。
だからこそ、神様はご自分の心に向かって、「もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない」と誓うように言われたのかもしれません。
植物で譬えてくださった方もおられました。
草を種から親切丁寧に愛情込めて育てると立派な芝生になっていく。でも放置されて踏まれて育った草は雑草になってしまう。人も生まれた後、愛情を注がれずに放っておかれると、良き子には育っていかない。生まれた後にどう育てていくかが大事ですよね、と。
人は悪い心をもって生まれてきたのではない。でも、放っておいていいものでもない。悪い心を持っているのであれば、良い心に育てていこう。そんな神様のメッセージが、この一文には込められているように思いました。
神様が創造された「人」を、そのように想って見ていてくださっている。私たちも、神様からそのような愛情を受けている人なんだと思い、感動して読めました。
コメント