このエステル記1章一節の始まりの言葉は「アハシュエロスすなわちインドからエチオピアまで127州を治めたアハシュエロスの世」、とあります。聖書の原文では、アハシュエロスの世 ויהי בימי אחשורוש(ヴァイヒー ビメー アはシュヴェロシュ:ヘブライ語は右から読みます )とあります。
ユダヤの賢者の解説によると、「悲嘆、苦悩、嘆きと悩みの物語の始まり」と解釈しています。
それで、アハシュエロス王の世の始まりは、「苦悩、、悩みの始まり」と、分析して読みますと、わかる気がします。ユダヤ民族に対しての苦悩、、悩みが始まった、アハシュエロス王の時代がここから始まった、と読めます。
王の治世3年から第12年までの間のことですが、ハマンの没落は僅か一日の間の事です。インドからエチオピアまで127州を治めたアハシュエロス王の世にあった出来事が記してあります。そしてそれは贅沢三昧なふるまいであり、180日間(半年)毎日まいにち酒宴を設けたとあります。
次の3節に、治世の第3年とありますが、これは毎日127州の大臣や侍臣たち同じメンバーが酒宴に招かれて過ごし、王様になって少し安定したとき、すなわち王になって3年なって地位が盤石になってきた頃のことでしょう。しかし実際は、当時ギリシャのサラミスの海戦では苦戦し、負け戦をします。エジプトとも戦争中ですし、先代のダリオス王から引き継いで王になった王なのです。
どうしてこのような酒宴を長期間していたのか、という理由の一つには、歴史家・ヘロドトスが「ペルシャ人にはきわめて重要な事柄を決めるときに、酒を飲みながら相談する」という習慣があった、と記しています。現代では考えられませんが、当時はそうだったようです。本音が出るのかも。相談して、ある議題を賛成しましたら、その会に出ました方たちが、翌朝、今一度検討して、良となると決定するそうでした。
大国ですから、検討すべき議題は多数あったことでしょう。勿論素面の時に決めたことは、決まるでしょう。あびるほど酒を飲んだのではないでしょう。酒宴を設けながらこの国の政策を決めていた、のではと読めます。
もし、本当に酒を飲んで酒宴をしたというなら、180日間が終わって、5節に、「これらの日が終った時、王は王の宮殿の園の庭で、首都スサにいる大小すべての民のために七日の間、酒宴を設けた」とありますので、王は、長期の議会が終わって、皆様ご苦労様でした、と言って慰労会を七日間、追加で酒宴設けたのが5節ではないでしょうか。
この時は、酔いつぶれるまで飲んだのではないでしょうか。それは、180日間酒宴をしたのに、なお7日間さらに酒宴を開いたのか、と書いてあるからです。最初の180日間は、大臣たち偉い人のため。後の七日間は、民のため、と記してありますね。
記事を読みますと、この酒宴は、無礼講のような酒宴であった、とあります。絢爛豪華な装飾、高価な調度品がおかれているような宴会場に招かれた、とありますから、招かれた方たちはご満悦でしたでしょう。
2章5節以降に、第一神殿の崩壊(紀元前587年)の時に、バビロンの王、ネブカデネザルが捕えていったユダの王エコニアと共に捕らえられていった捕虜の一人で、エルサレムから捕らえ移されたものであるユダヤ人モロデハイ一族のことが記してあります。
実際のアハシュエロス王の治世は紀元前485年から465年までの20年間です。彼の名前には、「偉大な人」という意味があるそうです。
エフライム.A 著
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