パラシャット・ヴァイガッシュの「ヴァイガッシュ」は創世記44章18節の「この時ユダは彼に近づいて行った」の「ユダは近づいた」の原語です。前のパラシャ―でも語られたように、ヨセフは弟のベニヤミンに対する思いを、ユダもベニヤミンや父ヤコブの思いを赤裸々にぶちまけて一歩も引きさがらないときに、ヨセフは制しきれなくなって、45章で自分の身を明かします。
ヨセフは自分の身を明かす際には、人払いをして身内だけにし(45章1節)、まず述べたことは、「私はヨセフです。父はまだ生きながらえていますか」(3節)でした。兄弟達は大変驚いて、答えることができませんでしたが、ヨセフはさらにエジプトに売り飛ばしたことを悔やむ必要がないこと、自分は恨んでいないこと、「神があなたがたの生命を救うために、先にわたしをここに遣わされたのです」(5節)と答えています。
これは驚くべき発言です。ヨセフはエジプト文明の最高位に坐するようになっていましたが、飢饉により兄弟達に出会うことによって、神に見せられた夢を思い出し、神の思いを生きようとし始めたのでした。そして父ヤコブをと兄弟達をエジプトで最高の場所ゴセンの地に住まわせようとします。これを伝え聞いたパロもヨセフの父と兄弟達を最上のもてなしでエジプトに迎えようとします。
兄弟達がヤコブの所に帰り、このことを告げると、ヤコブは信じられないと驚きますが、最後は死ぬ前に生きているヨセフに会いたいと言って、ベエルシェバに行き、イサクの神に祈ります(46章1節)。
その時、神は「エジプトに下るのを恐れてはならない。私はそこであなたを大いなる国民とする。あなたと一緒にエジプトに下りまたあなたを必ず導き上る。ヨセフがあなたの目を閉じる」(3-4節)と語られます。これはヤコブとヤコブ一族の将来について、またやがて起こるべきモーセによる出エジプトまでを含んだ預言の言葉です。こうしてヤコブ一族70人がエジプトに下り、ゴセンの地に住みますが、職業はエジプト人の忌む羊飼い、家畜の牧者でした。(27-34節)。
47章7-9節にはヤコブがパロを祝福する場面が描かれていますが、この時のヤコブの齢は130歳。アブラハムは175歳、イサクは180歳で亡くなっていますので、「わたしの齢の日はわずかで、ふしあわせで、私の先祖たちの齢の日と旅路の日には及びません」と言っていますが、決して自己謙遜をしているのではなく、波乱万丈であった生涯を振り返り、アブラハムやイサクと同様に神に祝福され導かれてきた今までの歩みを感謝しながらパロを祝福している場面だと思います。このようにして、ヤコブ一族は飢饉の残り5年間も無事ヨセフに養われて過ごすことができます。
このパラシャ―は、飢饉によってヨセフは本来の自己を回復し、晩年のヤコブはヨセフに出会うことによって、神の御心を悟り、神の民であるイスラエル民族の将来を見通すことになるパラシャ―と言えるでしょう。
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