ヴァイシュラッハ 創世記32章3節〜36章43節

創世記

 パラシャット・ヴァイシュラッハの「ヴァイシュラッハ」は創世記32章3節「ヤコブはセイルの地、エドムの野にいる兄エサウのもとに、さきだって使者をつかわした」の「つかわした」にあたります。

このパラシャーは創世記36章の終わりまで続くヤコブの生涯における重要な部分を占めています。それはヤコブがイスラエルと名前を変える箇所だからです。

 ヤコブは、もともと自分を殺害しようとした兄エサウを逃れてラバンのもとに行ったわけですから、兄に会うのを大変恐れていたわけです。

それでアブラハムとイサクの神に助けてくれるように祈り(32章9-12節)、それから山羊や羊、牛やロバの贈り物をエサウに送ってなだめようとしました。最初に贈り物をヤボクの渡しをわたらせ、次に二人の妻と二人のつかえめと十一人の子供たちを夜の間に渡らせました。そしてヤコブ自身は渡らないで宿営していたマハナイムに残りました。ところがひとりの人が夜明けまでヤコブと組打ちしたとあります(32章24節)。

その人が勝てないので、ヤコブのもものつがいに触ると、ヤコブのもものつがいははずれました。夜が明けるのでその人は去ろうとしますが、なおもヤコブは自分を祝福してくださいと懇願すると、あなたの名前は何かと問われるので、ヤコブと答えると、その人は、もはやヤコブともはやヤコブとは言わず、イスラエルと名乗りなさい。神と人とに力を争って勝った(神によって勝った)からですと答えます。ヤコブはなおもその人の名前を知らせて下さいと懇願しますが、その人は名前を教えず、そこでヤコブを祝福します。そこでその場所をペニエルと名づけます。それは「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」(32章30節)とあります。

ヤコブとは「かかと」との意味があり、人を押しのけようとする性格を表していると思われます。ところがここで天使と相撲を取ることによって名前がイスラエルと変わります。名前が変わるとはその人の本質が変わることを意味します。神と人とに勝つ(神によって勝つ)ような強い性格になったとも思われますが、神と顔と顔をあわせて「なお生きている」経験をします。「なお生きている」は、原文では「わたしの魂が救われた」(バティナツェル ナフシ)の意味です。即ち神と出会って魂が救われる経験をしてイスラエルとなったと思われます。

また夜が明けようとすると天使が私を去らせてくださいと言っているのを見ると、まだ暗い未明に神に向ってもものつがいが外れるほど、全身全霊で祈った結果、このような経験したとも言えます。

33章では、兄エサウが、以外にも、ヤコブを抱いて赦してくれます。何とか贈り物は受け取ってもらい、兄はセイルに帰り、ヤコブはスコテから、シケムで宿営します。

ところが、34章にあるように問題が起こります。ヤコブの娘デナが、ハモルの子シケムに凌辱されます。シケムはデナを愛していたので結婚したいと思っていたので、ハモルはヤコブにそれを伝えます。しかしヤコブの子らは妹が汚されたとして、偽を言い、もし割礼を受けるなら、妹を嫁に出してもよいと答えます。それをまともに受け、シケムの町の人々が割礼をして、痛みを覚えているとき、ヤコブの子らは、町を襲撃して、ハモルとシケムを殺し、デナを連れ出します。ヤコブは町の住民である大勢のカナン人、ぺリジ人の復讐を恐れます。

その時、神がヤコブに現れ、「ベテルに上り、兄エサウを逃れた時に現れた神に祭壇を造りなさい」と声かけます(35章1節)。

それでヤコブは、家族およびともにいるものに「あなたがたのうちにある異なる神々を捨て、身を清めて着物を着換えなさい。われわれはベテルに上り、私の苦難の日にわたしに答え、私の行く道で共におられた神に祭壇を造ろう」(35章3節)と告げます。そして持っている異なる神々や耳輪などを土に埋め、ベテルに出発しましが、不思議に追手がなく、無事にベテルに着き、そこに祭壇を築き、その場所をエル・ベテル(ベテルの神)と名づけます。

35章9節以降には、この時の出来事と思われますが、再び神はヤコブに現れ、名前をヤコブではなくイスラエルと呼ぶように告げます。そして「私は全能の神(エル・シャダイ)である。あなたは生めよ、増えよ、一つの国民、多くの国民、王たちがあなたから出るであろう。アブラハムとイサクに与えた地をあなたとあなたの子孫に与える」とさらに告げられます。

これはまさに17章でアブラハムに語られたと同様な祝福です。確実にアブラハムに与えられた祝福がヤコブに臨んだことを意味します。

その後、ヤコブは旅を続けたが、ラケルが産気づいたが、難産で、彼女が死のうとしたとき、男の子が生まれ「ベノニ」(苦しみの子)と名づけたが、ヤコブは「ベニヤミン」(力を表す右の子の意)と名づけ、妻ラケルをベツレヘムの道にあるエフラタに葬ります。ヤコブはさらに進み、ヘブロンにいる父イサクもの許へ帰ります。イサクは180歳となり日満ちて死んで民に加えられたとあります(35章29節)。

以上、パラシャット・ヴァイシュラッハは、ヤコブの生涯で最も重要な部分を述べておりますが、名前がヤコブからイスラエルに変わるためには、苦難の日に出会ったベテルの神に立ち帰り、異なる神々を捨てて、身を清める必要があったことが分かります。

アブラハムから始まった祝福がイサク、ヤコブと続くためには、神が何度も現れて、声をかけ、すべきことを告げます。やはり今も聖書の神はアブラハムの祝福が全地に広がるように働き続けておられるのではないでしょうか。

36章にはエサウの系図が載せられていますが、25章にアブラハムの子イシマエルの系図が載せられているように、ヤコブに長子の特権を奪われとはいえ、イサクの子、アブラハムの孫への、神の憐れみの表現が綴られています。

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