パラシャット・ベレシートのべレシートは、創世記の1章1節の「はじめに神は天と地を創造された」の「はじめに」から採られています。
原語のヘブライ語のべレシートの語根に「頭」という語があり、神が天と地を創造する前に、神の中には、ある考え、計画があり、天と地を創造されたと読むことができます。
以下このパラシャ―には創世記6章8節まで続く壮大なドラマが綴られています。そこで大体次の三つの事柄に分けてみました。
第一に天地創造における人間の創造、
第二に失楽園、
第三にノアの登場。
天地創造の由来から始めたいと思いますが、2章の1-2節に「こうして天と地、その万象が完成した。神は第7日にその作業を終えられた。即ちそのすべての作業を終わって第7日に休まれた」とあり、天地創造は6日で終わり、7日は休まれて安息日となったことが記されています。
神の言葉による6日間の創造の内容を見ると、天地創造によって空間ができ、その後、光を創造されて、光が昼、闇が夜となり第1日が形成され時間が創造されました。
第2日は天の生成について、第3日では陸地と海の形成について、陸には草木が生育。第4日は太陽と月の創造。第5日は魚類と鳥類の創造。
第6日目に地上の家畜、地を這う動物、獣の創造。しかし何といっても人間の創造こそ、天地創造の頂点です。1章27節に「神は自分のかたちに人を創造された」とあり、「かたち」とはヘブライ語ではツェレムで、影という意味です。神の御影として、神の存在に寄り添うものとして、人間は創造されました。
2章では「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった」(7節)とあります。
1章では神のかたちとして創造され、2章では神に命の息(ネシャマット・ハイーム)を鼻に吹き入れられ、生きた者(ネフェシ・ハヤー)とあり、より内面的に人間が何によって生かされているかが描かれています。
ところが
3章で、人は、蛇にそそのかされた女がとった善悪を知る木の実を取って食べてしまい、神の生命を失ってしまいます。
すると目が開けて裸でいることが恥ずかしく、神の「あなたはどこにいるのか」(アイェカ)の呼びかけにも答えず、木の陰に身を隠します(3章9節)。
その結果、神と共にエデンの園には住めなくなり追放されてしまいます(3章24節)。エデンの園を追われたアダムは額に汗してパンを食する以外にない運命を生きることになります。これが失楽園です。
4章ではアダムの長男カインが、自分の供え物が神に喜ばれなかったのに対し、弟のアベルの供え物が喜ばれたことに腹を立て、弟アベルを殺してしまいます。
何という悲劇が起こったのでしょう。
これは結局、神から離れてしか生きられなくなったアダムの刈り取った運命の結果としか言いようがありません。
5章のアダムの系図を見ても、カインとアベル以降、人の寿命が記されるようになり、地上のはかない命の存在として人の姿が描かれています。
ただ例外は神と共に歩んだエノクのみでした(5章24節)。
6章では、人が増え、神の子たちが人の娘の美しいのを見て妻にめとると、神は「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ」(6章3節)と嘆かれ、神の霊が人間の創造された時のように人間の中にとどまってほしいと強く願われました。
しかし6章5節では「主は、人の悪がはびこり、すべてその心に思いはかることがいつも悪いことばかりあるのを見られた」とあり、人を創造したことを悔やまれ、地上からご自分が創造されたものをすべて消し去ろうと思われました。
しかし神の愛はこれに耐えられず、ここに神の前に恵みを得たノアを登場させます(6章8節)。
このように人間を創造された神は、知恵の木の実を食べて地上を放浪するようになった人間アダムの子孫を一度は絶やそうと思われましたが、それを思いとどまりノアを登場させて人類を救おうとされる神の愛を、この最初のパラシャ―から学ぶことができます。
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