ミケッツ 創世記41章1節〜44章17節

創世記

パラシャット・ミケッツは創世記41章1節の「二年の後パロは夢を見た」の「二年の後」の「」にあたります。

 ヨセフの夢の話はこのパラシャ―でも続きますが、このパラシャ―がヨセフの生涯の分岐点ともなる大切なパラシャ―です。前のパラシャーでヨセフは悲惨な状況にあっても神が共におられるので、侍衛長ポテパルの所でも、獄屋でも恵まれて過ごすことができました。そして給仕役の長と料理役の長の夢も「解くのは神によるのである」(40章8節)と言って解くことができました。

 このパラシャ―ではパロの二つの夢を解くのですが、一つは肥え太った七頭の雌牛がやせ細った雌牛を食い尽くす夢、もう一つは太った七つの良い穂がある茎を東風に焼けた七つの痩せた穂が飲みつくす夢です。エジプトの魔術師が解けないこの夢を、ヨセフは「パロの夢は一つです。神がこれからしようとすることをパロに示されたのです」(41章25節)と言って解きます。これは正夢でこれから起こる七年の豊作と七年の飢饉夢でしたが、パロは驚いてヨセフを「われわれは神の霊をもつこのような人を見出し得ようか」(41章38節)と評しています。ヨセフは30歳で全国のつかさとなり、パロはヨセフをザフナテ・パネアと呼び、ポテぺラの娘アセナテを妻として与え、二人の子供が生まれます。長子はマナセで「神が私にすべての苦難と父の家の全てのことを忘れさせられた」の意味で、次男はエフライムで「神が私を悩みの地で豊かにせられた」(41章51-52節)の意味です。

 この時点でヨセフは人生の絶頂にあったと思われます。今までの兄弟から受けた辛い仕打ちをも忘れて栄華を誇るエジプトのプリンスともいえる地位に着いたのです。ヨセフは自分のために神が最善をなしていると思ったことでしょう。

 しかし事態は思わぬ方向に進みます。七年の豊作の後に七年の飢饉が始まります。飢饉が激しくなり、カナンにいるヤコブ達も食料に窮し始めます。

 42章ではヤコブがヨセフの十人の兄弟をエジプトに遣わして穀物を得ようとします。兄弟達は地にひれ伏してヨセフを拝して穀物を売ってくれるように頼みますが、ヨセフは兄弟達だとは分かったが、彼らに向かって「知らぬ者のように(ヴァイトナケル)荒々しく語った」(7節)とあります。ミトナケルとは変装する、偽装するとの意味もありますが、なぜヨセフは自分自身を表さないで偽ったのでしょうか。9節に「ヨセフは彼らについて見た夢を思い出して彼らに言った『あなたがたは回し者でこの国のすきをうかがうために来たのです』」とあり、昔見た兄弟達が自分を拝む夢を思い出して、一方では自分の過去を13年ぶりに思い出し懐かしく思い、他方では現在の地位にある自分を見比べて偽らざるを得なかったのだと思います。しかし神によって見せられた13年前の夢が確実になっていることを感じて驚愕せざるを得なかったのも本当だと思います。

 その後ヨセフは自分の身は明かさないで、穀物を与えるのと引き換えに弟のベニヤミンを連れてくるように要求します。兄弟達はシメオンを人質として残し穀物を得てヤコブのもとに帰ります。

 43章では、飢饉はさらに激しくなり、ヤコブは子供たちが得た穀物を食い尽くしてしまい、またエジプトに穀物を買いに行かせます。しかしベニヤミンを連れて行かなければなりません。ユダがベニヤミンの身を請け負い、ヤコブもベニヤミンを失ってもよいと覚悟を決めて全能の神が憐れんで下さるようにと祈りを込めて送り出します。

 ところがエジプトに着くと、ヨセフはベニヤミンと兄弟達を見て自分の家で食事に招待します。食事中、ヨセフは弟ベニヤミンの顔を見てなつかしさのあまり、心が迫り泣く場所を探し、部屋に入って泣いた(30節)とあります。

食事後、ヨセフは家づかさに命じ、穀物と代金を兄弟達めいめいの袋に入れてやり、ベニヤミンの袋にはヨセフの銀の杯を入れて帰します。そしてヨセフは家づかさを追いつかせ、銀の杯が見つかったベニヤミンを盗みの犯人として奴隷にしようとします。この時ユダがベニヤミンをかばおうとして、自分たちも奴隷となると言ってこのパラシャ―は終わります。

ここにヨセフのベニヤミンに対する思いとユダのベニヤミンに対する思いが赤裸々に描かれていますが、共にやがてなるべき一部族も欠けてはならないイスラエル民族の12部族成立のための苦闘がここに描かれています。神は飢饉を通して、ヨセフのへブル人としての魂を目覚めさせ、ヤコブの家の結束をはかり、イスラエル民族の基を据えられました。

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