ヴァイェラ 創世記18章1節〜22章24節

創世記

パラシャット・ヴァイェラの「ヴァイェラ」は創世記18章1節「主はマムレのテレビンの木のかたわらでアブラハムに現れられた」の「主は現れられた」にあたります。
このパラシャーはアブラハムの生涯に神の約束が成就していく大変重要なパラシャ―です。その約束とは後継者イサクが生まれること、そしてそのイサクを神に捧げることで神との契約が完結されることです。

18章では三人の天使と思われる人がアブラハムを訪れ「来年の春、サラに男の子が生まれる」(18章10節)と告げます。
サラは老齢な自分にそんなことはあり得ないと笑いますが、神は全能です。
「来年の春」は原文では「生命の時」との意で、生命が臨む時と考えられ、実際、21章1-2節では、神がサラを顧み(パカッド、訪れるの意)、不思議な生命に満たされ身ごもって、男の子イサク(笑うの意)を生みます。

 18章の後半では神はアブラハムには隠し事はしない、非常に親しい関係を示す事柄として、悪のはびこるソドムとゴモラの滅亡について問答があります。

神はソドムとゴモラを滅ぼそうと思われるが、もし10人でも義人がいるなら滅ぼさないでくださいとアブラハムは神に訴えます。
神は悪人と義人を一緒に滅ぼされるのですかとアブラハムは神に迫ります。
神はアブラハムを召したのは、祝福を与えるためでしたが、それは正義と公道を行わせるためであったので(18章19節)、アブラハムの言い分を認め、10の義人がいるならソドムとゴモラを滅ぼさないと約束します(18章32節)。

 しかし10人の義人がいなかったためでしょうか、19章ではソドムとゴモラが滅ぼされてしまいます。
神は二人の天使をつかわしソドムにいたロトと妻、それに娘たちを救おうとされます。
町の人々は二人を捕まえようと宿泊しているロトの家に押しかけます。町の人々が二人をかばったロトに危害を加えようとしたので、二人は神通力をきかして町の人々の目を見えなくしてロトを救います。

神は町の不義のため(19章15節)、また人々の叫びが大きくなったので(19章13節)、硫黄と火を天から降らせて、ソドムとゴモラを滅ぼすことを決心され、ロトと妻と娘たちに町から逃れるように命じ、後ろを振り向かないように命じます。
しかし妻は振り向いたので塩の柱になってしまいました(26節)。

このソドムとゴモラの滅亡の出来事も19章29節には「神はアブラハムを覚えて、その滅びの中からロトを救い出された」とあり、アブラハムの義人を滅ぼさないで下さいとの信仰と祈りがあるのを見ることができます。

さて、なにゆえか、20章からはアブラハムはヘブロンのマムレを去ってさらに南のネゲブに移り住んだことを記しています。
そこのゲラルの王アビメレクにサラを自分の妹であると言ってまでもそこに留まろうとします。これは12章でエジプトのパロにサラは妹だと偽ったのと同じパターンです。
理由はサラが妻であると言ったら、サラは美貌であるために召し抱えられ、自分は殺されるかもしれないと思ったからです。
しかし神はアビメレクに夢で現れ「サラはアブラハムの妻で、彼女に触れてならない。返しなさい。アブラハムは預言者であり、あなたを生かしてくれる。もし返さないなら、あなたとあなたの身内は死ぬ」(20章7節)と言い、一方的に嘘をついたアブラハムを擁護しています。

それでアビメレクは羊、牛、男女の奴隷をアブラハムに与え、好きな場所に住むことをゆるします(15節)。

さてアブラハムが100歳となり、約束通りサラにイサクが生まれると、また新たな問題が起きます。
サラは、イサクが乳離れし、祝いの席でハガルの子イシマエルと遊ぶ(メツァヘイク)するのを見て、イシマエルを追い出すようにアブラムに訴えます。
理由はイシマエルが世継ぎとなるべきではないからです。
また遊ぶ(メツァヘイク)は悪ふざけをするという意味もあるので、母としては心配したというのが本当のところかもしれません。

これを見て神はアブラハムにサラの言うとおりにするように言い、イサクが世継ぎとなるべきであることを告げます。
それでハガルはパンと水を与えられその子イシマエルとベエルシバの荒野をさまよいます。しかし皮袋の水が尽き、ハガルはイシマエルを木の下に置き、自分もイシマエルの方を向いて離れて座り、死のうとしたとき、イシマエルが声を上げて泣きました。
神はその声を聞かれ、ハガルに「恐れてはいけない。わらべを抱きなさい。私は彼を大いなる国民とする」と語ります。そこでハガルが見ると井戸があり、水をべイシマエルに飲ませたとあります(21章14―19節)。
これは16章のハガルがサライから追われてさ迷って、井戸のそばで天使と出会い、祝福を約束した神を「エル・ロイ」と呼んだ話と合わせて、アブラハム伝における最も感動的なくだりです。

神は直系ではないイシマエルにもアブラハムの子として特別の恩恵を与えておられるのです。

21章の後半は、再びアビメレクが軍勢の長ピコルと登場します。今度は井戸の所有権の問題です。
アブラハムはアビメレクの家来が井戸を奪い取ったと非難したが、アビメレクは知らないと答えたので、雌の小羊7頭を分けて置き、これを与え、井戸はアブラハムの所有であることの証拠とするように申し出ます。
これに対してアビメレクは、神があなたと共におられる(22節)と言って受け入れ、契約を結び誓ったので、その場所は「ベエルシバ(誓いの井戸、七つの井戸)」と呼ばれるようになった(30-31節)とあります。
砂漠や荒野では水がなければ生きていけないので井戸は重要な生命の糧です。
その井戸を与えられたので、アブラハムは感謝して、一本の塩性植物であるギョリュウの木を植えて永遠の神(エル・オーラム)の名を呼んで祈っています。

ここで永遠の神(エル・オーラム)の名が出、エル・オーラムは隠れている神との意もありますが、アブラハムをここまで守り導いてきた神の別名であることは疑いありません。

創世記22章はアブラハムの生涯にとって最大の試練です。
高齢のために不可能と思われていたのに、神の全能の力によって与えられた愛する一子イサクを燔祭として捧げねばならいとう理不尽な命令が神から下されたのです。

22章1節に「神は試みて(ニサー)」とあるので、神からの試練であることが分かります。それも「アブラハムよ」と神は名を呼んでいるので信頼して呼んでいるのが分かります。
2節のモリヤの地とは現在のエルサレムのモリヤの丘と言われています。
ベルシェバからイサクにたきぎを負わせ、自分は火と刃物をもってエルサレムまで歩くには、3日はかかります。その間、イサクが「燔祭の子羊はどこにありますか」と尋ねると「子よ、神みずから燔祭の子羊を備えて下さるであろう」とアブラハムが答える以外、親子は三日間、何も話さず、黙々と歩きました。その心中は思いはかることはできません。どんな辛い思いをしたことでしょう。理不尽の要求に神を呪ったかもしれません。

そしてアブラハムは神の言われた通り、祭壇を築き、薪をならべ、そのイサクを縛って薪の上に載せ、刃物を取って殺そうとしました(22章9-10節)。

その時、天から主の使いが「アブラハムよ、アブラハムよ」と二回、呼んでいます。その時アブラハムは「はい、ここにおります(ヒネニー)」と答えています。

名前を二回呼ぶのは信頼を表し、ヒネニーは、はい、ここにいます。
準備万端ですという意味です。何のためらいもない、こころ穏やかに答えている様子が分かります。神がその様子をご覧になって、主の使いが「わらべに手をかけてはならない。何もしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ私のために惜しまないので、あなたが神を恐れる者(イェレ)であることを私は今知った」と答えます。イェレとは神を畏れる、敬神を意味しています。

 ここからアブラハムの心をうかがうことができます。神の信頼に対しての絶対服従です。神からの信頼があればこそ、その命令が理不尽に見えようとも従うことができます。アブラハムにはこれまで愛されてきた神の愛が心に充満していたと思われます。
もともと神から与えられたイサクですから神にお返ししようと思ったのかもしれません。それを見て神はそれで充分と思われ、15節に「私は自分をさして誓う」とあり、神ご自身が誓われ、「あなたを大いに祝福し、大いにあなたの子孫を増やし、天の星、浜辺の砂のようにする。地の諸々の国民はあなたの子孫によって祝福を得る」と言われ、アブラハムとの契約を完結されたのでした。

コメント