創世記44章 「銀の杯」

よむ会の記録

創世記44章覚書です。(神藤氏コメントより)

今日もありがとうございました。時間切れで本論に入れず、残念でした。
44章でユダが弟を守るために自分を犠牲にする態度が一つのポイントでしょう。
もう一つは、ユダが父親ヤコブに対する愛の深さが際立っていますね。恐らくヨセフ以上でしょう。
もしヨセフが父親を安心させたかったら、イスラエルまで出かけて行くか、手紙を書くか、メッセージを誰かに託してでも、自分の安全を知らせることができたでしょうが、していません。

創世記22章で、人が神の命令を忠実に行うために自分の最愛の子さえも躊躇せず犠牲に捧げることができるのを見て、神ご自身も驚いています。
44章では、ユダが父ヤコブを悲しませないために、自分を犠牲にしてまで家族全員を守ろうとすることに、ヨセフは圧倒されます。
エジプトの宰相になってからすでに10年近くが経っているのに、自分から父を安心させる行動を取ってきませんでした。ヨセフが最後に父と言葉を交わしたのは37章で、ヤコブはヨセフの兄たちがシケムで羊を飼っているけれど無事であるかどうか見て来いとヨセフを遣わします。
それから20年、父からの音信が途絶え、父が本当に自分を愛していてくれるのか自信が持てなかったのかもしれません。
「汝の主なる神を愛せよ」「汝の父母を敬え」は、イスラエル民族の2つの掟となっています。

44章でベニヤミンが一言も発していない理由について考えてみました。
自分の食料袋にヨセフの銀杯が入っていたことについて、一言も弁明しない、罪を否定しようとしないのは、なぜか。
私は22章のイサクの身代わりになった雄羊のことに関連付けてみました。つまり「贖い」です。
「屠り場に曳かれてゆく小羊のように、また毛を切る者の前に立つ羊のように、口を開かなかった」(イザヤ書53章)
いっさい申し開きをしないベニヤミンの姿、また兄弟の誰も彼を咎めていないことを見ると、彼らの兄弟愛の団結を伺えるのではないでしょうか。
このベニヤミンの姿に触発されて、ユダは兄弟を代表してヨセフに申し開きをしたのかもしれません。ハダッサ病院にあるシャガールのステンドグラスでは、ヨセフには羊が、ベニヤミンには狼が描かれています。しかし、イザヤの預言では、狼と羊が共に住む時代が到来すると記されています。
創世記44章は、その予兆とも言える贖いの縮図かもしれません。

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