パラシャット・ハアジーヌのハアジーヌは申命記32章1節の「天よ、耳を傾けよ」の「耳を傾けよ」にあたります。このパラシャ―は、モーセがいよいよ民と別れる際に語った歌が取り上げられています。歌(シーラー)と書かれているので、モーセのうちからメロディーと共に湧き上がるような言葉であったと思われます。それは主なるイスラエルの神の賛美に満ちています。32章10節―12節を見るといかに神が民を愛しておられたか、その描写が胸を打ちます。
「主はこれ(民)を荒野の地で見い出し、獣のほえる荒れ地で会い、これを巡り囲んでいたわり、目の瞳のように守られた。わしがその巣の雛を呼び起こし、その子の上に舞いかけり、その羽をひろげて彼らをのせ、その翼の上にこれを負うように、主はただ一人で彼を導かれて、ほかの神々はあずからなかった」。
神がその民を導かれるのは、わしがその巣雛を養い育てるのに似ているという表現です。それもたった一人で40年間かけて荒野で育てられたのでした。
イスラエルの神は、「あなたを生み、造り、堅く立てたあなたの父」(アヴィーハ6節)、または「いと高き者」(エリヨン8節)あるいは「救いの岩」(ツール イシュアト15節)と呼ばれていますが、いったん民が、神から与えられた牛や羊の乳を飲み、肉を食し、ぶどうの汁の泡立つ酒に酔い、肥え太ると自分を生んだ神を忘れて、ほかの神々に仕えるようになってしまいます(14-18節)。それで神は、一旦彼らから顔を隠してその終わりがどうなるかを見ようとします(20節)。しかしイスラエルの民は悪事を重ね神に立ち帰ろうとはしません。そこで神は敵によってイスラエルの民に災いを下し滅ぼそうとします。だが今度は敵が誇り高ぶって「われわれがイスラエルの民に勝ったのだ。イスラエルの神がなされたことではない」と言い始めます。そこでとうとう神は民を憐れんで、「私のほかに神はない、私は殺し、生かし、傷つけ、癒す。私の手から救い出しうるものはない」(39節)と言ってご自分を現わされます。
この歌の言葉を、モーセとヨシュアは民に読み聞かせ、子供達にも伝えるように命じ、最後にモーセは「この言葉はあなたがたの生命であり、ヨルダン川を渡って得る地で長く生命を保つことができるであろう」(48節)と告げます。
この日神は、モーセにネボ山に上りイスラエルの人々が得ようとしているカナンの地を見渡すように言います。しかしモーセ自身はその地に入れずネボ山で死ぬことになると告げられます。なぜなら、「チンの荒野メリバテ・カデシの水のほとりで、イスラエルの人々のうちにわたしを聖なるものと敬わなかったから」(51節)とあります。
このようにモーセは神の人としてイスラエル民をエジプトから導き出し、シナイ山ではトーラー(律法)を授けられ、その一生を終える時、民に歌をもって訴えたのは、神の民を愛してやまない一方的な愛であったと言えます。モーセ自身は約束の地に入れずともそれを見渡すだけで十分ではなかったかと思われます。
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