パラシャット・ニツァビームのニツァビームは申命記29章10節に「あなたがたは皆、今日、あなたの神、主の前に立っている」の「立っている」にあたります。このパラシャーは前のパラシャ―と同様、29章12-15節に記されているように、モーセを通して、神が、今日ここに共に立っている者ばかりではなく、共にいない者とも、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたように、契約と誓いを結ぶという内容です。
この契約の律法や戒めは、もともと隠れた主なる神に属していたもので、それが目に見える形になったもので、イスラエルの民と子孫がこれを行わなければならない(29章29節)。しかし、この律法や戒めを守らないと呪いが臨んで他国に追いやられるが、主に立ち帰り、心を尽くし精神を尽くし、主の声に聞き従うならば、神は再び栄させ、散らされた国々から呼び集められ、民の心に割礼を施し生命を与えられる(30章6節)とあります。
しかもこの戒めは難しいものでもなく、遠くにあるものでもなく、天にあるものでもない。海の彼方にあるものでもない。それは「あなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたは行うことができる」(30章11-14節)。さらに神はイスラエルの民に「私は、今日、天と地を呼んで、あなたがたの証人とする。私は生命(ハイーム)と死(マヴェット)、及び祝福と呪いをあなたの前に置いた。あなたは生命(ハイーム)を選ばなければならない」(30章19節)と迫っています。それは生命を得て、イスラエルの民が、約束の地で長く存続できるからという神の愛の強制を感じさせる言葉です。
この生命(ハイーム)は、肉体の生命を意味するとともに神の生命にも使われる言葉です。イスラエルの民が末永く生きるとは、単に長生きするばかりでなく、神の民として、神の生命を現わして生きることを願われていることが分かります。
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