パラシャット・イェレフの「イェレフ」は申命記31章1節の「そこでモーセは続いてこの言葉をイスラエルの全ての人に告げて」の「続いて」にあたります。
イェレフは「行った」の意味ですから、日本語訳聖書の「続いて」は誤訳と思われます。
モーセは一体どこに行って最後の別れの言葉を述べたのでしょうか。この点に関してはいろいろな注解がありますが、きっと民の一人一人の所へ行って別れの言葉を告げたと思われます。その別れの言葉とは、自分は120歳となり身体も弱まり、ヨルダン川も渡ることができない。その代わり主が先立って行かれる。だから強く雄々しくかれと(31章6節)。次にヨシュアにも同様に主が先立って共に行かれるから、強く雄々しかれと(31章7節)。
さらに祭司達や長老達には律法を書いて、7年ごとに仮庵の祭りで律法の言葉を全てのイスラエル人に読んで聞かせるように命じます(31章11節)。
その後、主ご自身が幕屋の入口に雲の柱になって現れ、モーセとヨシュアに声をかけられ、モーセには「お前は、間もなく死ぬことになるが、民は異邦の神々を拝するようになるから、自分は顔を隠す。そして民に多くの悩みと災いが臨む。
それでこの歌を書き記しイスラエルの人々に唱えさせない」と。ヨシュアにはさらに「私が誓った約束の地に導入れなければならない。強く雄々しかれ」(31章14節―23節)と告げられます。
このようにヨルダン川を渡って約束の地に入るには、神ご自身が、民が神から離れて異邦の神々に走るようになることさえ見越して、モーセとヨシュアに命じておられます。なぜこれまでして神は民を顧みられるのでしょうか。それはなんとか神の言葉、律法を民の口に唱えさせ、神の民としようとする神の愛から出ているのではないでしょうか。
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