エケヴ 申命記7章12節〜11章25節

申命記

パラシャット・エケブのエケブは申命記7章12節の「これらのおきてを聞いて守り行うならば」の「‥ならば」にあたります。即ち「…ならば‥の結果となるでしょう」の意味が含まれています。

 このパラシャーでも何度も神はイスラエルの民にモーセの十戒を守るように命じています。

8章2節で40年間、荒野を放浪しなければならなかったのは、神の命令、おきて、定めを守るかどうかを知るためであったとあり、神はなんとかご自分のおきてを守らせようとします。飢えた時にマナをもって養ったのは、「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった」(8章3節)とあります。

しかしイスラエルの民はすぐ罪を犯して神の戒めを守ろうとせず、9章6節で神はイスラエルの民に呼びかけて「あなたは強情な民(クシェーオレフ)である」と言っています。これは「うなじのこわき民」とも訳されていますが、頑として神の声に聞き従おうとしない態度のことを指しています。

 その代表的な例は、シナイ山で十戒を授かった時、イスラエルの民は金の子牛の偶像を造ったので、神が怒りイスラエルの民を滅ぼそうとされたことです。しかしモーセがとりなしたので、再度石板に十戒を刻むことができました(10章2節)。
 このような不従順な民に対して徹底的に言い聞かせたことは、イスラエルの民が約束の地に入って富が増し加わった時、「自分の力と自分の手の働きで、この富を得たと言ってはならない」(8章17節)、強くて背の高いアナク人を追い払い、約束の地に入れた時、「私が正しいから、主が彼らを追い払い、約束の地に導き入れられたと言ってはならない、彼らが悪いから追い払われたのである」(9種4節)とあり、自分の力とか自分の正しさでこの出エジプトの大業を成し遂げたのではない。神の憐れみと力のおかげであるということです。

 そして神はイスラエルの民にもう強情であってはならない。「心に割礼を行いなさい」(10章16節)と言われ、心の中に神のトーラー(指図)を刻み込んでそれを行うことを願われました。

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