デバリーム 申命記1章1節〜3章22節

申命記

 パラシャット・デバリームのデバリームはダバルの複数形でダバルは言葉という意味です。今回から申命記に入りますが、申命記はデバリームの訳語です。

申命記とは、モーセがイスラエルの全ての人々に告げた言葉(申命記1章1節)であるということになります。トーラーと呼ばれるモーセ五書の中で、申命記は第二のトーラー(ミシュネー・ハトーラー)と呼ばれるほど、ユダヤ教では大事にされ、BC622年、ヨシヤ王の時に神殿から発見された律法の書であるとされています。

 1章5節でモーセはヨルダン川東岸のモアブの地で、このトーラー(律法)の説明をしたと記されており、その内容が2章、3章と続きます。それはいかにこの四十年間、約束の地に入るために苦難と通って来たかを思い出させる内容です。

特にシナイ山から恐ろしい荒野を通過してカデシ・バルネアに到着した時、イスラエルの民は人をつかわして約束の地を探らせようします。しかし確かに約束の地は良い地ではあるが、アモリ人やアナク人は身体も大きく強そうで、町々も堅固でとても攻め取れそうではないとの報告をして、民の心をくじいてしまいます。その時、モーセは「恐れてはならない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたの神、主は荒野で、人が子を抱くようにあなたがた抱くのを見た」(申命記1章31節)と答えています。

 2章ではいかにしてヘシボンの王シホンを、3章ではいかにしてバシャンの王オグを倒したかが、詳しく書かれています。それはとりもなおさず、主が戦われる戦いで、イスラエルの民がそれに従って戦うと勝利しました。主が民のうちにいないと敗北しました(申命記1章42節)。

 このパラシャーで、モーセは、イスラエルの民がヨルダン川を越えて約束の地に入る前に、今までの歩みを振り返り、主なる神がいかにその民を抱くようにも愛してくださったかを思い出させようとしました。

 

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