具体的には33章で、イスラエルの民は、モーセとアロンに導かれて、シンの荒野、十戒を授けられたシナイ山のあるシナイの荒野、チンの荒野を経て40年目には、ホル山でアロンは123歳で死んだ後に、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブ平野に到着したことが描かれています。
34章2節に「あなたがたの嗣業となるべき地は次のとおりである」とありますが、それは決して乳と蜜の流れる地ではなく、「その地の住民をことごとくあなたがたの前から追い払い、全ての石像、鋳像をこわし、偶像を礼拝する高き所を破壊しなければならない」(33章52節)とあります。そしてその後、部族ごとに嗣業の地が与えられます。
なぜ神はモーセにこのように命じられたのでしょうか。やはり純粋に神を礼拝するためには、その住民を原文では「ホラッシ」しなければならない。ホラッシとは「追い払い」、その土地を「奪い取る」の意味で、石像や鋳像、高き所も「イベット、ヒシュミード」で「破壊し尽くさなければならない」という強い言葉です。
このことはイスラエルの神とその民の関係を現わしています。それはまたただ厳しいだけのものではなく、愛の関係であることが35章の逃れの町で分かります。誤って人を殺した場合は、レビ人に与えられた逃れの町に大祭司が亡くなるまでいることができます(35章25節)。しかし故意に人を殺して血を流した場合は、血の復讐を受けて殺される。35章33-34節に「あなたがたはそのおるところを汚してはならない。流血は地を汚すからである。地の上に流された血は、それを流した者の血によらなければ、贖うことができない。あなたがたはその住む地、私がおる地を汚してはならない。主なる私がイスラエルの人々のうちに住んでいるからである」と書かれています。
このように民数記の最後は、イスラエルの神は、イスラエルの民の中に住み(ショヘン、臨在するの意)、その土地を聖地となす、聖なる神であることを現しています。
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