今日は出エジプト記10章です。
イスラエルの民を去らせることをまだ頑なに拒否するパロ王に対して、
神様は次なる災いをもって応じます。
8つ目の災害は、「いなごの大群」でした。
見よ、あす、わたしはいなごを、
あなたの領土にはいらせるであろう。
それは地のおもてをおおい、
人が地を見ることもできないほどになるであろう。
そして雹を免れて、残されているものを食い尽し、
野にはえているあなたがたの木をみな食い尽すであろう。(4-5節)
さすがにパロの家来たちは王のもとに行き、
いつまで、この人(モーセ)はわれわれのわなとなるのでしょう。
この人々を去らせ、彼らの神なる主に仕えさせては、どうでしょう。
エジプトが滅びてしまうことに、まだ気づかれないのですか(7節)と訴えます。
“この人”ひとりによってエジプトが滅びてしまう・・・
そんな危機感を最初に感じたのは家来たちでした。
それにしても、“この人”と表現するのをみると、
モーセの名前を出して彼を英雄視しないように
注意しているのが読み取れます。
そこでパロ王は、
行って、あなたがたの神、主に仕えなさい。
しかし、行くものはだれだれか。・・・
あなたがたは男だけ行って主に仕えるがよい。
それが、あなたがたの要求であった。(8・11節)と言って、
全員が去ることだけは避けようとします。
これが外交というものなのでしょうか。
巧みにしかけて、どんなことがあっても
損しないように仕向けようとするのが
パロの言葉からも伝わってきますね。
そんな態度のパロに対して、神はいなごの大群がおこさせ、
さらに9つ目の災い「暗闇」がエジプト全国を襲います。
三日の間、人々は互に見ることもできず、
まただれもその所から立つ者もなかった。
しかし、イスラエルの人々には、
みな、その住む所に光があった。(23節)とあるように、
闇が覆えば人々はその場から全く身動きが取れない。
しかし、イスラエルの民がいる所には光があった!
何度もパロ王に呼び出されて災いを止めるよう要求されるモーセ、
その度にパロ王の外交交渉は続きますが、モーセも頑なに態度で応じました、
わたしたちは幼い者も、老いた者も行きます。
むすこも娘も携え、羊も牛も連れて行きます。
わたしたちは主の祭を執り行わなければならないのですから。(9節)
わたしたちは家畜も連れて行きます。
ひずめ一つも残しません。(26節)
あれだけパロ王のもとに行くことも恐れていたモーセが、
全ての民を連れて主の祭りを行うまでは、
断固として引き下がらない!妥協しない!
という姿に変わっていました。
ここまで人を変えてしまうものとは何なのか・・・考えさせられます。
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