出エジプト記4章では、
モーセの必死な「抵抗」がとても強調されて描かれています。
モーセは言った、
「しかし、彼らはわたしを信ぜず、
またわたしの声に聞き従わないで言うでしょう、
『主はあなたに現れなかった』と」。(1節)
今まで羊飼いをしていたモーセが、
いきなり奴隷で苦しむ民を救い出せと言われても
「はい、わかりました!」という感じにはならなかったんですね。
どんなに神様からの声であっても、
自分の立場を顧みたら迷ってしまうことがあるかもしれません。
それは10節を見ても感じ取れます。
モーセは主に言った、
「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、
しもべに語られてから後も、言葉の人ではありません。
わたしは口も重く、舌も重いのです」。(10節)
ここを読むと、モーセは吃りだったのではないか、
という説もあります。
民を導くリーダーとして、
話すことが苦手な私なんか務まるわけがない・・・
というような、モーセの心の嘆きが聞こえてきそうです。
でもこれはまた同時に、
神の言葉を民に伝えるという意味において、
そのような霊的な言葉を語ることの「畏れ」
でもあるのではないのかなとも思いました。
人に神の霊的な言葉を伝えるというのは畏れ多いことです。
拒みつづけるモーセは、
自分なんかが何もすることはできないと主張しますが、
そのようなモーセに対して神様は激しく迫り、
不思議なしるしをもって働かれることを約束されます。
主は彼に言われた、
「だれが人に口を授けたのか。
話せず、聞えず、また、見え、見えなくする者はだれか。
主なるわたしではないか。
それゆえ行きなさい。
わたしはあなたの口と共にあって、
あなたの言うべきことを教えるであろう」。(11-12節)
人の前に立って語る時は、神様ご自身が口となり、
語るべきことを教える!だから恐れず語りなさい!
そのような心で聖書を読み、語ることが大事だと心に響いてきました。
それにしても、あの熱情的な指導者モーセも最初はどもりだったなんて驚きです。
(写真は燃えるしばをイメージしましたが、ちょっと燃えすぎですかね・・・)
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