出エジプト記も19章まできました。
このあたりは、ユダヤ人のみならず、聖書を愛読する人であれば、
誰もが知る有名な箇所になります。
それこそ、シナイ山における「十戒」の授与。
ヘブライ語では“מתן תורה”(マタン・トラー)と呼ばれ、
「律法授与」と訳されたりします。
つまり、モーセが神様から律法を授かったことを意味しているんですね。
19章では、律法を授ける本当の目的や意味、
また、その律法を授かるための備えなどが記されています。
その中で、重要なキーワードの一つが「きよめ」。
主は山から彼(モーセ)を呼んで言われた、
「・・・もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、
わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、
わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。
あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、
また聖なる民となるであろう」(5−6節)
神様の声に聞き従い、それを行なう者は「神の宝」となる。
そして、彼らの住むところは「祭司の国」となり、
彼らは「聖なる民」になる、とまで言われます。
「聖なる民」とは“גוֹי קָדוֹשׁ”(ゴイ・カドッシュ)。
聖別された民のことをさしていますね。
この「カドッシュ=聖」と同じ語根から派生した言葉が、
19章では何度か出てきます。
主はモーセに言われた、
「あなたは民のところに行って、きょうとあす、彼らをきよめ、
彼らにその衣服を洗わせ、三日目までに備えさせなさい。
三日目に主が、すべての民の目の前で、
シナイ山に下るからである」。(10−11節)
どこに出てくるか見つかりますか?
「今日と明日、彼らをきよめなさい」という箇所は、原文だと、
“וְקִדַּשְׁתָּם הַיּוֹם וּמָחָר”(ヴェ キダシュタム ハヨム ウマハル)です。
「きよめる」という言葉は、「聖別する」と訳した方がいいのか、
あえて「清め」と書かずに、平仮名で書かれています。
確かに、「清める」と「聖める」では、意味が違いますね。
そこでモーセは山から民のところに下り、民をきよめた。
彼らはその衣服を洗った。(14節)
主に近づく祭司たちにもまた、その身をきよめさせなさい。
主が彼らを打つことのないようにするためである。(22節)
と、たびたび「きよめる=聖=カドッシュ」という単語を用いて、
聖めることを強調しているようにも読めます。
神様は、シナイ山に辿り着いたモーセとイスラエルの民に、
3日間の時間を与えました。
その期間に、身支度を整え、魂を聖別して備えなさい、
と命じられたのかもしれません。
ヘブライ語の「聖別」には、
俗なる世界と聖なる世界をはっきりと区別する、
という意味も含まれています。
この時ばかりは、不平不満を漏らしていた民たちも、
神ご自身が顕現する山に近づいて、
いつもとは違う霊的な雰囲気を感じたのだと思います。
そして彼らは3日間、神様と出会うための備えとして、
モーセと共に聖別の時を過ごしました。
3日後に待ち受けていたものは・・・
19章では、聖なる場所、また聖なる会に近づこうとする時に、
外側の準備も大事ですが、より心を聖別することの重要性を
教えられたような気がします。
聖なる領域に近づくことが許されるには、
聖なる臨在に触れるための内側の備えもまた大事なんですね。
やはり聖書を原文で読むと、新しい発見がいっぱいあります!
また、聖書を読みながら聖地を歩くと、もっと格別です。
もう一度、シナイ山に行きたくなってきましたが、
写真を眺めながら我慢します。
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