今週の聖書(パラシャット・シャブア)
3月14日(日)〜3月20日(土)
レビ記1章1節〜5章26節
レビ記最初の語バイクラ―をとって
ヘブライ語聖書では「バイクラー」と呼ばれますが、
七十人訳聖書やラテン語訳聖書では、モーセはレビ族出身であったので
「レビ記」とし、日本訳聖書もそれに従いました。
この書はユダヤ教では「祭司の律法」と呼ばれます。
このパラシャット・バイクラーも主に祭司の務めについて書かれています。
バイクラーは、「そして主が呼んだ」の意味ですが、
誰を読んだのかというとモーセです。
2節に「あなたがたがうちだれでも家畜の供え物を主に捧げるときは」と
ありますが、ヘブライ語原文では
「あなたがた自身から家畜の供え物捧げる時は」と読めます。
神に対する捧げものは、自分自身を捧げることを意味しています。
つまり自分が所有してる自分の家畜から捧げる意です。
また捧げるのヘブライ語「ヤクリーブ」は「近づく」の意味で、
イスラエルの民一人一人が神に近づくためには、
自分自身の一部である家畜をコルバン(近づくための供え物)として
捧げなければなりませんでした。
以下1章では、捧げる人が燔祭として牛、羊、鳥を捧げる場合について
詳しく書かれていますが、まず燔祭に手を置きます。
これは自分と燔祭とが一体であることを意味し、
その後、アロンの子である祭司が燔祭の血を祭壇の周囲に注ぎました。
2章では穀物の捧げものとしての素祭は、小麦粉、油、乳香を火祭として
祭壇の上で焼く、かまどや平鍋、深鍋で焼いた素祭も同様に祭壇に上で焼く。
素祭には、パン種を入れず、神との契約の印である塩で味を
つけることなども書かれています。
3章では、神に感謝、誓願するときの捧げもの、自発の捧げものを酬恩祭として
捧げ、牛、羊、山羊を捧げる場合について述べられ、
4章から6章7節までは誤って罪を犯した場合の罪祭について述べられています。
祭司が罪を犯し、雄の子牛を罪祭して捧げる場合は、まず子牛の頭に手を置き、
子牛の血をとって聖所の垂れ幕の前で七度注ぎ、薫香の祭壇の角に塗り、
残りの血は燔祭の祭壇に注ぐとあります。
また脂肪は燔祭の祭壇の上で焼き、子牛の残りは、宿営の外の灰捨て場で
焼き捨てます。
以下、人の犯す罪は様々で、それに対しどのように
罪祭を捧げるかが書かれています。
これらは一体何を物語っているのでしょうか。
出エジプトしたイスラエルの民が聖なる民となるために、
神に近づく時、まず自分自身を捧げ、誤って罪を犯して主のおきてを
破った場合は、犠牲の血を七度も祭壇に注がなければならない。
これは、如何に罪を取り除くことが難しいかを示していると思います。
そうならば、神に近づくためには、日々自分を捧げること以外にないと思わされます。
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